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Your search : [ author:本誌記者 孫聰宝] Total 323 Search Results,Processed in 0.077 second(s)
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201. 遼寧省南部大地震現地ルポ
さる二月四日十九時三十六分、遼寧省南部の営口、海城地区にマグニチュード七·三の地震がおこった。だが、地震研究部門の予報にもとづいて、中国共産党遼寧省委員会および地震発生地区の各クラスの党委員会が大衆を指導して、万全の防災措置をとっていたため、被災区人民の被害を最小限にくいとめることができた。わたしたちが営口についたのは五月三日だったが、その翌日、九時二十分頃、早速、マグニチュード四·一の余震に見舞
Author: 本誌記者 程天 Year 1975 Issue 9 PDF HTML
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202. あふれる復興の息吹
営口駅から出ると、われわれは早速その足で町をまわってみた。並木はいっせいに芽を吹き、いたるところ新緑につつまれていた。大通りも小路もすべてきれいに清掃されている。商店には色とりどりの品物が豊富にでまわり、買物客があとをたたない。倒壊したり、ひび割れしたりした健物や臨時に建てられた簡易住宅のほかは、ここがはたして三カ月前に、烈震に襲われたところだろうかと、自分の目をうたがうほどであった。簡易住宅これ
Author: 本誌記者 陳耕 Year 1975 Issue 9 PDF HTML
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203. 訪日をまぢかにひかえた 北京芸術団
訪日公演をまぢかにしてけい古に励んでいる中国北京芸術団をいくども訪ねた。そして、けい古もみせてもらい、団員ともいろいろと話し合った。団員のすべてが、このたびの訪日の目的と意義をよく理解していた。「こんどの日本訪問は、公演することと学ぶことがわたしたちの目的ですが、それよりも大切なことがあります。それは中国人民の厚い友情を日本人民につたえ、両国人民の友好を増進することです」と誰もが言う。そうしたこと
Author: 本誌記者 魯傑 Year 1975 Issue 9 PDF HTML
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204. 上海華山病院にできた医科大学
外科の呉校林医師は、人民公社の生産大隊で会計係をしていたが、五年ほど前の一九七〇年に推されて上海市華山病院付属の医科大学に入学した。村を離れるとき、人びとは「大学に入っても、わしら勤労人民のことを忘れてはならんぞ」とくれぐれも言い聞かせた。呉校林君は郷里の農民たちの期待にそむかなかった。かれは、卒業すると、故郷の金山県にもどってきて、この県にある前進病院で働くようになった。かれは以前の、素朴な一農
Author: 本誌記者 黄震堯 Year 1975 Issue 9 PDF HTML
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205. ウイグル歌劇「紅灯记」
中国文芸の花園に、またひとつ新しい花が咲いた。新疆ウイグル自治区歌劇団が革命的現代京劇「紅灯記」をウイグル族のことばと音楽で演じ、それに成功したのである。中国の西北部、修正主義反対の最前線の地にいる民族歌劇団が、今年の五月、首都北京の舞台で、ウイグル歌劇「紅灯記」を演じ、広はんな労働者·農民·解放軍兵士と文芸活動家の熱烈な称賛を博した。「紅灯記」の あらすじ「紅灯記」は、京劇革命のなかでうまれた革
Author: 本誌記者 曾慶南 Year 1975 Issue 10 PDF HTML
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206. 通勤は自転車で
「中国旅行中、都会に入ると、まるで自転車の洪水の中にいるようですね。毎日、夜あけから、たそがれどきまで大通りを走る潮のような自転車のながれには全く目を見はらせます。人びとはどうしてこんなにも自転車を愛用するのでしょうか?実はわたしも自転車の愛好者ですが、ひとつ『人民中国』でこのことをとりあげていただけませんか」 ―読者訪中代表団と本誌編集部との座談会から北京の自転車の
Author: 本誌記者 彭光璽 Year 1975 Issue 10 PDF HTML
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207. 中国の女性飛行士
年若い女性だったとは!内蒙古草原はすでに冬だった。寒風が吹きすさび、たえまなく雪が舞い降りるなかを、鉄鋼労働者たちが、草原の空港ではてしなく広がる空を心配げに見あげている。社会主義祖国がより多くの鉄鋼を必要としているこの大切な時機に、かれらの製鉄所の設備が故障した。できるだけ早くこれを修復するため、上級指導部は飛行機で必要な資材をおくってくれるという。だが、この草原の空港はどうにか使えるという程度
Author: 本誌記者 魯傑 Year 1975 Issue 11 PDF HTML
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208. “命のあるかぎり人民のためにつくす”
負傷してから三十六年もまえのことである。河北省成安県の県境で、八路軍某部隊は日本侵略軍と激戦を交えた。そのさい、黄金科という若い戦士が重傷を負った。黄金科は、後方の病院に送られて手当をうけた。傷がよくなるにつれて、一日もはやく前線に戻り戦いたいという気持がつよくなっていった。だが、長期にわたる治療と休養が必要で、退院してもふたたび前線にはゆけない、と軍医から言い渡された。それを聞いて黄金科は悩んだ
Author: (本誌記者 韓瀚) Year 1975 Issue 12 PDF HTML
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209. 敦煌紀行
敦煌は美しい壁画と塑像で有名な莫高窟([注释1])の所在地として昔からその名をよく知られている。甘粛省の西端と新疆ウイグル自治区との接点に位する敦煌県は、面積四万一千平方キロで、台湾省よりも広いが、その面積のほとんどが砂漠地帯である。この敦煌県を黄色いカンバスにたとえた者がいる。そのカンバスの数カ所にみどりの絵具のしずくがとび散っているようだという。みどりの点のひとつは莫高窟で、谷間にはみどりの樹
Author: 本誌記者 田潔雲 Year 1976 Issue 1 PDF HTML
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210. 砂丘退治の名人―張鳳山さん
中国の西北地区の敦煌(どんこう)県、その砂漠地帯で穀物、綿花のいずれにも多収穫をあげるという奇跡を実現した生産大隊がある。その名は鳴山生産大隊。この生産大隊は鳴沙山のふもとにある。鳴沙山は敦煌県内の名山だが、実は大きな砂丘なのである。それが山といわれるのは、延々四十余キロにわたって峰をつらね、最高峰は二百余メートルにたっするからである。遠くから眺めると山のようにみえるが、近づくと波うつ砂模様が砂丘
Author: 本誌記者 田潔雲 Year 1976 Issue 2 PDF HTML