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Your search : [ author:構成 魯忠民 え·趙永康 ガイド 孫悟空] Total 528 Search Results,Processed in 0.302 second(s)
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11. 2 西南郊 雲居寺 十渡 上方山 etc.
日本のお客さまには、ぜひ西南郊外に足を伸ばしてほしいものです。いわば「知られざる名所」の数々。北京の“ふところの深さ”が、十分たんのうできるでしょう。北京の西南郊外。主として房山県の山間にはこの数年間に開発·整備された新しい観光スポットが散らはっています。房山県は、総面積二〇五〇平方キロメートル。三分の二が山か丘陵ですが、河北·山西の省境から東北方向に伸びる太行山脈の支脈にあたる一帯の山々は、繁華
Author: 構成 戴徳忠 魯忠民 え 魯忠民 Year 1988 Issue 10 PDF HTML
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12. 5 新疆 ウルムチ 早わかりマップ
お待たせ!もとい、 たいへん長らくお待たせいたしました!わたくし、姓は孫、名は悟空、人呼んでスーパー·モンキーと発します。河西回廊を抜けて敦煌へ。敦煌を抜けると、いよいよ先は新疆(しんきよう)です。文字どおりの西域に、みなさまは足を踏み入れたのです。ひとくちに新疆と言っても、中国の国土の六分の一を占める広大な地域、接する国境だけでも、モンゴル、ソ連、アフガニスタン、パキスタン、インドと、境界線が五
Author: 構成 戴徳忠 魯忠民 え 魯忠民 Year 1988 Issue 11 PDF HTML
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13. 服飾の近代化
1911年の辛亥革命によって清王朝が倒され、1912年に中華民国が成立、新政府は一連の社会改革案を発布した。男子の弁髪(へんはつ)、女子の纏足(てんそく)など封建社会の古いしきたりを廃絶、身分をはっきり示す歴代の官服を廃止し、新時代の平等精神を具現した新しい礼服を制定した。
Author: 構成·魯忠民 周衛軍 Year 1999 Issue 2 PDF HTML
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14. 「四書五経」から「社会主義建設」まで
1905年9月5日、清朝政府は科挙制度の廃止に踏み切った。唐·宋時代以来1,300年以上続いた科挙による官吏登用制度に終止符を打ち、中国は近代的な教育制度の確立に向けて一歩を踏み出した。 中国では教育は昔から重視された。「学問をして良い成績を挙げれば高位高官になれる」わけで、知識人たちは科挙を受けて秀才、挙人、進士の3等級に合格することに出世への望みをかけた。毎年都に赴いて進士の試験を受ける者は7
Author: 構成·魯忠民 周衛軍 Year 1999 Issue 3 PDF HTML
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15. 「世界で最も偉大な都市」北京の変遷
北京は3000年の歴史がある。紀元前1045年、燕の国が今の北京の西南、房山一帯を都として以来、12世紀から今世紀初頭まで、遼、金、元、明、清の5つの王朝が北京に都を置いた。中でも元代の大都(だいと)は高度の文明を誇る、13~14世紀世界最大の都市だった。元が滅びた後、明の永楽帝は大都のやや南を中心に首都再建に取り掛かり、明·清両代の北京の構図が確立する。 明·清時代の北京は外城、内城、皇城、紫禁
Author: 構成·魯忠民 周衛軍 Year 1999 Issue 4 PDF HTML
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16. 家父長制度を否定 核家族化も進行
儒教の五つの経典の一つとして重んじられている『易経』に、こんな一節が見える。 天地有りて然る後に万物有り。万物有りて後に男女有り。男女有りて然る後に夫婦有り。夫婦有りて然る後に父子有り。父子有りて然る後に君臣有り。君臣有りて然る後に上下有り。…… 男は長じて妻を娶り、女は長じて夫に嫁ぐ。古来中国人は結婚を人生の大事と考えてきた。男女ともに結婚の自由を持たず、必ず媒酌人が仲立ちし、父母が取り定めた。
Author: 構成·魯忠民 周衛軍 Year 1999 Issue 5 PDF HTML
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17. 「多子多福」から「一人っ子」へ 全人教育が社会的課題に
「多子多福(子どもが多ければ、幸せも大きい)」―この言葉に、中国人の伝統的な家族観が表れている。「あわれ、世の親の心よ」で、子どもは親の未来であり希望だった。中国の子どもは、祖先の名を揚げる責任と、大成を願う親の期待を、その小さな肩に背負って育った。
Author: 構成·魯忠民 周衛軍 Year 1999 Issue 6 PDF HTML
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18. 耕す者が其の田を有つ
中国は昔から農業国だった。その中心となってきたのが農民であり、農民と農村問題は今日もなお中国の根本的課題となっている。中国の人口は極めて多く、今世紀の70年代末まで世界の約4分の1を占めていたが、自然環境には恵まれず、土地資源も貧しいため、耕地面積では世界のわずか20分の1に過ぎなかった。清代には約87%の土地が個人所有で、残りは帝室をはじめ、「八旗」と呼ばれる朝廷直系の臣下、学校、軍事組織に属し
Author: 構成·魯忠民 周衛軍 Year 1999 Issue 7 PDF HTML
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20. 賴りは自分の足だけだった 長距離バスが鉄道のライバルに
むかしの中国は、移動手段がきわめて乏しかった。もちろん、馬、ラクダ、かご、ラバやロバが引く車などがあり、川や湖には船もあったが、ほとんどの場合、自分の足で歩くしかなかった。乗り物が少なく、情報の伝達も不十分だったため、旅に出るのは容易ならぬ一大事だった。道路はほとんど舗装されておらず、国都·北京でさえも、「晴れれば足は砂に埋まり顔は土埃に覆われ、雨降れば泥が道に溢れ、悪臭が一面を覆った」という状態
Author: 構成·魯忠民 周衛軍 Year 1999 Issue 9 PDF HTML