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Your search : [ author:虞曉宇 魯忠民=文 魯忠民=写真] Total 149 Search Results,Processed in 0.076 second(s)
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141. 寝てもさめても訓練!訓練! 中国人民解放軍儀仗隊
「中国の儀仗隊は、私がこれまで見た中で一番みごとである」―アメリカのニクソン元大統領は、かつて中国を訪問した際の印象を、回顧録の中にこう記している。中国人民解放軍儀仗隊は、諸外国のそれと同じように、国際慣例にしたがい、外国の元首や貴賓の公式訪問を送迎して閲兵を受けたり、国内の重要な活動に出動して、儀仗礼の任に当たる。1953年に成立以来、出動はすでに1000回を超えた。儀仗隊員は、一般の兵士とは別
Author: 写真 馮進 魯忠民 文 劉耀林 Year 1989 Issue 10 PDF HTML
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142. 泥人形 双啓翔さん
海外では「ペキン·オペラ」の名で呼ばれる中国の京劇。はなやかな舞台衣装にもまして興味をそそるのが、俳優の顔にほどこされる“くまどり”―臉譜(リエンプー)だろう。双啓翔さんは、子供のころから、この臉譜に似せてつくられたお面が大好きで、ちょうど日本の子供が「鉄腕アトム」や「ドラえもん」のお面をかぶって遊ぶように、双少年も、くまどりのお面をかぶっては、あの胡同(フートン)この胡同を駆け回ったのだという。
Author: 写真/譚実 魯忠民 文/孟皋卿 Year 1990 Issue 1 PDF HTML
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143. 曹氏風箏 孔祥沢さん
凧(たこ)は中国に発祥し、二千年の歴史をもつ。五代になると、竹製のうなりを取りつけるようになり、風に乗って爽やかな音をたてるところから、「風箏(フオンヂオン)」(風の琴)と呼ばれるようになった。立春から清明にかけて、春の訪れをことほぐかのように、中国の大地のそこかしこで、さまざまな凧が大空を翔(かけ)る。『紅楼夢』の作者·曹雪芹に、凧を研究した著作『南鷂北鳶考工誌』があるのをご存知だろうか。凧の歴
Author: 写真/譚実 魯忠民 文/孟皋卿 Year 1990 Issue 3 PDF HTML
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144. 鬃人(ゾンレン) 白大成さん
北京の園遊会や縁日でよく見かける人だかり、ピカピカのしんちゅうのお盆に目をこらし待つことしばし、人形つかいが両手で木槌をあやつって、チャンチャン、チャチャンとお盆を叩くと、乗っている人形が生きているように動き出す。孫悟空が天界で大あばれする場面だったりすると、もう子供たちの目はまんまる。中国に古くから伝わる「鬃人」という人形だ。清末民初のころ北京で大流行したそうで、王春佩という人が考えつき、独占経
Author: 写真/譚実 魯忠民 文/孟皋卿 Year 1990 Issue 5 PDF HTML
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145. 刀馬人 韓増啓さん
「刀馬人」とよばれるこういう人形は、清朝の滅亡によって失業してしまった近衛軍の、ある騎兵が、糊口をしのぐために作って売ったのがはじまりで、その騎兵というのは、韓増啓さんのおじいさんだ。失業したおじいさんは、以前せともの工場で見習いをしていたときに覚えた腕で、土の馬や犬やらくだを作りはじめた。縁日のときに護国寺や白塔寺などへ持って行くと、まずまずの売れ行きで、なんとか暮らしは立った。なにしろ馬背上の
Author: 写真/譚実 魯忠民 文/孟皋卿 Year 1990 Issue 7 PDF HTML
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146. 影絵人形 劉季霖さん
長い伝統に培われた中国の影絵芝居は、戯曲、音楽、美術、民間文学、時には宗教までもが渾然一体となった総合芸術の性格を帯びている。中国語で「皮影(ヒーイン)」あるいは「驢皮影(リユヒーイン)」と呼ばれるのは、ロバの皮を薄くなめしてから、芝居の登場人物の形に切り抜き、彫刻と着色をほどこして影絵人形に仕立てたことから。今日なお、中国の多くの影絵人形はロバの皮をその主要な材料としている。皮細工は、早く戦国時
Author: 写真/譚実 魯忠民 文/孟皋卿 Year 1990 Issue 10 PDF HTML
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147. 起点は成都―豊かな絹の生産地
成都劉備·孔明ゆかりの古城古代西南シルクロードの玄関だった成都は、現在四川省の省都である。面積1万2456平方キロで、成都平原の大部分を占め、総人口は960万人、そのうち302万人が都市部に住んでいる。およそ2300年前、古代蜀王が郫県から遷都してきて、2年で都に育て、成都と名付けた。紀元前316年、秦の張儀が巴蜀を滅ぼして、大勢の秦人を移住させ、前311年には、秦の都·咸陽に似せて城を築いた。秦
Author: 写真·周孟棋 魯忠民 文·魯忠民 Year 1997 Issue 11 PDF HTML
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148. 万里長江第一城―宜賓
西南へのかげ橋紀元前221年に天下を統一した秦の始皇帝は、勅命を発し、四川盆地から雲南貴州高原に至る道路を開削させた。道幅が5尺(当時の1尺は22.5センチ)だったので、五尺道と呼ばれた。漢の武帝の時代にできた道も、唐代の石門道も、これを拡張または修築したものだった。その起点が宜賓で、南下して滇池、大理に至り、西南の険しい高山地帯に入って行く。宜賓は、金沙江と岷江の合流点にあり、ここから東が長江と
Author: 写真·牛牛 魯忠民 文·魯忠民 Year 1998 Issue 5 PDF HTML