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Your search : [ author:(東京支局長 林崇珍=文·写真)] Total 34 Search Results,Processed in 0.124 second(s)
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1. 「韓流」の中で考える
写真集の宣伝のため来日して、宿泊先のホテルに大勢のファンが押しかけ、怪我人まで出たあの「ヨンさま」。ハングルを習い、韓国のロケ地に出かけて行く中年の主婦たち……。このすさまじい「韓流」を、東京にいる私はひしひしと感じています。これと同じような現象は、中国でも過去にあったような気がします。二十数年前のことです。日本の映画『君よ
Author: 東京支局長 林崇珍=文·写真 Year 2005 Issue 2 PDF HTML
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2. 初体験の日本のお正月
大晦日、日本列島は雪でした。この日私は、日本で研修中の弊社の女性スタッフ三人と、神奈川県相模原市に行きました。『人民中国』の愛読者、正奈史(まさなふみ)さんから「お正月を私の家で迎えてみない」と招待を受けたからです。正さんは六十六歳。古流松月会の華道の先生です。大学の先生をしていたご主人は十三年前に亡くなり、今は息子さん夫婦と二人の孫といっしょに住んでいます。大晦日は、息子さん一家はお嫁さんの実家
Author: 東京支局長 林崇珍=文·写真 Year 2005 Issue 3 PDF HTML
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3. 京劇が結んだ心と心
山梨県北杜市は八ヶ岳の山麓にあります。去年十一月一日、長坂町と周辺の明野村、須玉町など七つの町村で合併し、北杜市となりました。人口約四万五千人。自然豊かで温泉も多く、観光や農業が主な産業です。新しい市の誕生を記念して、今年一月十五日夜、長坂コミュニティー·ステーションのホールで、中国の京劇が上演されました。公演には、中国大陸から中国京劇院などのベテラン俳優三人に、台湾からも一人の京劇俳優が参加、さ
Author: 本誌東京支局長 林崇珍=文·写真 Year 2005 Issue 4 PDF HTML
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4. 「話せば分かる」中日関係
日本に来て一年余り。よく耳にする言葉に「話せば分かる」があります。意見が違って、喧嘩になりそうになると、誰かが「話せば分かる」と言いだし、喧嘩にならずに済むのです。中国では「話不説不透」(ホアブシユオブトウ)と言います。日本を訪問した弊社の于明新社長は、各地で『人民中国』の読者と交流し、中国の現状を報告してきました。九月三日は、神奈川県の大和地区日中友好協会主催で、日中交流談話会が開かれ、集まった
Author: (東京支局長 林崇珍=文·写真) Year 2005 Issue 11 PDF HTML
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5. 優れた点認め合う中日の高校生
去年十一月の下旬、東京の国立オリンピック青少年センターで、こんな光景を見ました。浴衣姿で盆踊りを踊っている日本人の高校生たちと、それをとりまいて「好(ハオ)!」と中国語で掛け声をかけながら楽しんでいる中国人の高校生たちでした。日本青少年研究所(東京·新宿区、千保石理事長)が主催する日本全国高校生の「いきいき活動奨励賞」の表彰式が行われた会場でのことです。中国の高校生たちは、同研究所が毎年、実施して
Author: (東京支局長 林崇珍=文·写真) Year 2006 Issue 2 PDF HTML
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6. 「どうですか、日本は」
東京支局長としての任期がまもなく終わる。この二年間は長かったようにも短かったようにも思う。面白いことに、最近いろんな人たちから見出しのような質問を受ける。僕はその度に「まあね」とだけ答えている。僕が多くを語らないのは、そんな時に日中協会の林祐一先生の姿が必ず頭に浮かんでくるからだ。東京支局に赴任して間もなく、僕は初めて林祐一先生にお会いした。「日本人って一体何なんだろう」自問でも質問でもない彼のこ
Author: 東京支局長·唐暉 Year 1999 Issue 12 PDF HTML
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7. 曲阜·孔子ゆかりの楷の木
歴史の町·足利市を訪ねて「日本最古の学校」「日本最古の総合大学」といわれる足利学校(足利市昌平町)を見学したのは八年前のことである。学校はもちろんのことながら、遺跡図書館の右脇に生えていた「栃木県天然記念物」である「楷(かい)の木」が深く印象に残った。このほど足利市で開かれた「楷の木シンポジウム」に参加するため、足利学校を再訪した。例の楷の老木は、晩秋に葉を黄色く染めていた。構内の一角で済寧市·足
Author: 本誌東京支局長 于明新 Year 1995 Issue 2 PDF HTML
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8. 坊津町を訪ねて
鹿児島県坊津町での取材を終えて東京支局にもどると、ポストボックスにたまった郵便物の中に、千葉県柏市の愛読者·和田栄さんからのお手紙があった。「于さんが坊津町秋目にある鑑真記念館へ取材なさったことは、記念館に勤めている同級生だった野口さんから連絡を受けとりました……」という内容であった。本誌新企画「遣唐使が歩いた道」の担当記者·曹復君の依頼で、鑑真和上が日本に上陸した秋目の取材のため坊津町に行ってき
Author: 本誌東京支局長 于明新 Year 1995 Issue 3 PDF HTML
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9. 後楽寮を訪ねて
江戸時代初期に明の遺臣朱舜水の指導で杭州の西湖を模して造られた中国ゆかりの庭園小石川後楽園に足を運び、ここで中日交流の歴史を味わいながら、心ゆくまで楽しいひとときを過ごす文人墨客が昔から多かった。時代の流れに伴い、中日両国の交流につながりの深かったこのあたりは、日中友好会館の建設で大きく変貌している。中日両国政府合意の国家的事業としての日中友好会館は、各界、各層の人びとの支援を得ながら、この名園に
Author: 本誌東京支局長 于明新 Year 1995 Issue 6 PDF HTML
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10. 東京だより
これまで、中国と日本の間を往復するのは飛行機ばかりであったが、ことし本誌に「遣唐使が歩いた道」という連載が登場してから、海のコースに興味を持つ人が増え、一度でも先人たちのたどった道をいってみようという気持ちをつのらせている。折しも、大阪―上海を結ぶ定期フェリー「蘇州号」が五月から月に一回遣唐使船の寄港地で、鑑真和上一行の上陸地でもある鹿児島に寄港するという情報をキャッチ、さっそく上海フェリー株式会
Author: 本誌東京支局長 于明新 Year 1995 Issue 8 PDF HTML