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Your search : [ author:閻長林 え·鍾涵] Total 7 Search Results,Processed in 0.070 second(s)
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1. 陜北戦役の頃の毛主席 (第一回)
一九四六年七月、蔣介石(チヤンチエシー)はアメリカ帝国主義の策動とあと押しをうけて、解放区に全面的な攻撃をくわえて来、全国的な内戦をひきおこした。解放区の軍隊と人民は八カ月にわたって勇敢に戦い、彼らの攻撃を粉砕した。蔣介石一味はこの失敗にこりず、ふたたび大兵力を集中し、一九四七年三月、中国共産党中央と人民解放軍総司令部の所在地延安(イエンアン)と陜甘寧(シヤンカンニン)辺区(陜西(シヤンシー)、甘
Author: 閻長林 え·鍾涵 Year 1962 Issue 2 PDF HTML
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2. 陜北戦役の頃の毛主席
間近にせまる勝利小河村(シヤオホー)は、山を背にし、川のほとりにあって、青々とした木立ちに囲まれている。中共中央機関は田次湾(テンツーワン)に五日滞在したのち、ふたたびここにもどってきた。緊張した戦闘がおわると、ふたたび落ち着いた生活にもどった。ここへの帰途に、主席はすでに、敵はここのところ数度の敗北を喫して、すぐには攻撃をしかけてくるだけの力がなくなっているだろうから、小河一帶にわれわれは比較的
Author: 閻長林 え·鍾涵 Year 1962 Issue 4 PDF HTML
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3. 陜北戦役の頃の毛主席(第五回)
黄河は絶対に渡らないどうも、中央機関は大きな危険にさらされているようだ。前には楡林(ユイリン)から南下する敵がひしひしと迫り、うしろからは劉戡(リユウカン)の七個旅団が追ってくる。前後の敵はあわせて一〇万ちかい。それがぐんぐんわれわれを圧してくるのだ。敵は、われわれの中央機関と主力部隊を無定河(ウーチインホー)と黄河(ホワンホー)のあいだのせまい地区におしこもうとねらっているのである。われわれは、
Author: 閻長林 え·鍾涵 Year 1962 Issue 6 PDF HTML
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4. 陜北戦役の頃の毛主席
風雨をついて夜行軍またたく間に六月がやって来た。われわれのまきつけたトウモロコシももう三〇センチあまりになっていた。村人たちは施肥と除草に忙しく働いていた。作物は青々と山をおおい、秋の豊作は間違いないと思われた。ちょうどそのころつづけさまの惨敗に業をにやした胡宗南(フーツオンナン)が、ふたたび劉戡(リユウカン)に四コ旅団あまりの兵力をひきいさせ、王家湾(ワンチヤアワン)一帶におそいかかってきた。司
Author: 閻長林 え 鍾涵 魏連福 Year 1962 Issue 3 PDF HTML
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5. 陜北戦役の頃の毛主席 (第四回)
行軍は勉強の時間党の中央機関は小河村(シヤオホー)に四十日あまりとどまっていたが、やがて新しい戦いの幕がきって落とされた。八月のはじめ、西北野戦軍の主力が楡林(ユイリン)にせまると、あわてふためいた胡宗南(フーツオンナン)匪賊軍が、部隊を南線から北線へ移動させ、楡林の囲みをとこうとしたのだ。鍾松(チオンスン)は三十六師団をひきいて、志丹(チータン)、安塞(アンサイ)一帶から万里の長城ぞいに東へすす
Author: 閻長林 え·鍾涵 魏連福 Year 1962 Issue 5 PDF HTML
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6. 陜北戦役の頃の毛主席
偉大な転換点中央機関は夜を日についですすんだ。戦局が大きな変化をみせつつあることは、だれにもよくわかった。行軍の途上、われわれは、劉伯承(リユウポーチヨン)、鄧小平(トンシャオピン)両同志のひきいる大軍が大別山に挺進したというニュースを聞いた。この大軍が大別山(タイピエシャン)区にはいったのは敵の胸にアイクチをつきさしたようなものだ―そのとき、主席はこう説明された。そればかりではない、そのころ、わ
Author: 閻長林 え·鍾涵 魏連福 Year 1962 Issue 7 PDF HTML
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7. われわれは永遠にあなたを忘れない
偉大な指導者毛主席の遺体の前に立ち、毅然としたなかにも安らかな表情をたたえておられる遺容を拝したとき、私は胸がひきさかれるような思いだった。毛主席、われわれがいま手にしている勝利、幸せは、すべてあなたの英知と労苦によってもたらされたものです。あなたはわれわれとしっかり結びつき、きってもきれない心のつながりをもっておられました。そのあなたが永久にわれわれのもとから去ってゆかれたのです。この悲しみはた
Author: 閻長林 え·董辰生 Year 1977 Issue 5 PDF HTML