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Your search : [ author:翁乃強(ウオンナイチヤン)] Total 8 Search Results,Processed in 0.090 second(s)
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1. 山をひらいて水をひく 河南省林県
河南(ホーナン)省西北部の林県(リン)は、かつて深刻な水不足に悩んでいた。県内にある八〇余万ムー(一ムーは六·六六七アール)の耕地は、わずか一万ムー灌漑できるだけで、県内に住む五〇余万人のうち、三〇余万人が、五キロも一〇キロもはなれた山のむこうから飲み水を汲んできては使っていた。茶碗を洗った水でなべを洗い、その水を濾(こ)してまたつかう。老人やからだの弱いものは、べんとうをもって、水のあるところへ
Author: 翁乃強(ウオンナイチヤン) Year 1964 Issue 12 PDF HTML
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2. 背負いかごで運ぶ店
「北京(ペイチン)猿人」で名を知られた北京郊外周口店(チョウコウテン)の山岳地帯に、「房山(フアンシヤン)県周口店販売購買協同組合黄山店(ホワンシヤンテン)人民公社分店」という長い名の小きな商店がある。ここの店員さんたちは、いつも商品をかごに背おって、山の村むらに品物を送りとどけている。山村の人びとは、この店のことを親しみをこめて「背(か)簍(ご)商店」つまり「背負いかごで運ぶ店」と呼んでいる。春
Author: 翁乃強(ウオンナイチヤン) Year 1966 Issue 4 PDF HTML
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3. 朝焼けをむかえて
于小眉(ユイシヤオメイ)は省立の農業技術学校を卒業すると、数日間家にいて、すぐに県城(まち)の近くのトラクターステーションに配属されることになった。明け方に着く汽車をおりて目的地につくと、職場の人たちはみな除草にでかけており、所長さんが一人でこれからの仕事についていろいろと話してくれた。所内の状況についての紹介がすみ、さて、かの女が具体的にどんな仕事につくかということになると、所長さんは、どうした
Author: 崔璇(ツイシワン) え·翁乃強(ウオンナイチヤン) Year 1964 Issue 6 PDF HTML
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4. 清明節の雨
一清明節のあとに降りだした雨が、そぼそぼと降りつづいていつ止むという気配もない。おんどりが三度ときを告げたとき、小陳岩(シヤオチエンイエン)生産隊長の陳明遠(チエンミンユワン)じいさんは、もう床のうえに起きあがっていた。夜どおし降りつづいた雨のため、じいさんはまんじりともしなかった。じいさんが眠れなかったわけは、草ぶき屋根の雨漏りのせいではなかった。生産隊の四〇ムーの綿畑が心配でならなかったのだ。
Author: 李准(リーチユン) え·翁乃強(ウオンナイチヤン) Year 1964 Issue 10 PDF HTML
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5. 飛行大隊長
一僚機のパイロットが急性盲腸炎で入院したので、大隊長の李傑(リーチエ)は気をもんでいた。八月はじめのある日、李傑の大隊にも新任のパイロットが六人配属されることになった。李傑大隊長の僚機にのるのは羅永剛(ローユンカン)という新人のパイロットだった。夜、李傑は羅永剛を宿舎につれて帰った。かれは小羅の荷物をとなりの空いたベッドにおいて言った。「さあ、かけたまえ、ここがおれたちのねぐらだ。きみはこれからこ
Author: え·翁乃強(ウオンナイチヤン) 官偉勛(クワンウエイシユン) Year 1965 Issue 9 PDF HTML
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6. 海南島の移動兵器工場
抗日戦争の当時、海南島(ハイナンタオ)のみどりしたたる美合(メイホー)の茘枝(れいし)林のなかでは、日夜ハンマーやふいごの音、労働の歌声がひびいていた。これがわたしたち瓊崖(チユンヤー)縦隊(独立師団)の兵器工場だった。この兵器工場には、さいしょたった四人の人しかおらず、工具もふいごが一つ、手動式のボール盤が一つ、やっとこが二挺、ハンマーがいくつかあるだけだった。その後、党中央が延安(イエンアン)
Author: 陳大新(チエンターシン) え·翁乃強(ウオンナイチヤン) Year 1966 Issue 4 PDF HTML
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7. 地下病院
無一物からはじめる一九四〇年の一〇月、河北(ホーペイ)省に新しくできた献(シエン)(県)交(チヤオ)(河(ホー))県で県大隊の成立大会が催された。その大会でわたしは大隊付の医師に任命された。ある日、宋(ソン)大隊長によばれて大隊本部へ行った。大隊長はわたしと向かいあって坐ると、すぐに用件を切り出した。「敵の『掃討』は今後いっそう激しくなるはずだ。われわれの任務もきびしくなって、移動もひんぱんになる
Author: 楊国藩(ヤンクオフアン) え·翁乃強(ウオンナイチヤン) Year 1966 Issue 6 PDF HTML
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8. 平型関の戦い
一九三七年九二五日、中国共産党の指導する八路軍[注释1]第一一五師団は、山西省繁峙県(シヤンシーファンチイ)東北の平型関(ピンシンクワン)付近で日本軍三〇〇〇余人をせん滅した。これは、中国人民が毛沢東(マオツオトン)主席の政治、軍事路線にしたがって、抗日戦争(一九三七~一九四五年)でかちとった最初の大きな軍事上の勝利で、日本軍はうち破ることはできない、という神話を打破したものである。軍用列車は、ご
Author: 李天佑(リーテンユウ) え·翁乃強(ウオンナイチヤン) Year 1966 Issue 9 PDF HTML