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Your search : [ author:玄素] Total 12 Search Results,Processed in 0.100 second(s)
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1. 発祥はいつどこで?
古来、中国では、文人のたしなみとして、書、画、琴と碁の四つが、必須のものとされてきました。つまり、文化教養のバロメーターとされてきたのです。最も歴史が長く、最も変化に富んだ棋芸が、すなわち碁(囲碁)にほかなりません。囲碁は中国に発祥していますが、さて、いつごろ、どこで、誰によって発明されたのでしょうか。“二説”あります。伝説上の聖王、堯(ぎよう)が、落ちつきに欠け、むら気の息子丹朱(たんしゆ)の性
Author: 玄素 Year 1987 Issue 1 PDF HTML
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2. 孔子·孟子の囲碁観
囲碁の起源については、前回、あらまし話しました。『春秋左氏伝』に、囲碁がたとえとして引かれていることから、春秋戦国時代、すでにひろく普及していたことが分かるわけです。前四〇三年、晋が魏、趙、韓に分かれ、中国の歴史は戦国時代に入ります。局勢(この言葉も囲碁に由来します)はきわめて不安定、群雄ならび興った戦乱の世ですから、王も武将も参謀も、いかに勝つか、どのようにして敵を下すかに腐心し寧日なきありさま
Author: 玄素 Year 1987 Issue 2 PDF HTML
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3. 三国時代の囲碁熱
三国時代の史実をもとにスケールの大きな戦争絵巻をくりひろげた小説、と言えばもうお分かりでしょう。『三国志演義』です。中国では、「四大奇書」の一つとされ、大人も子供も『演義』の話となると、よほどのへそ曲がりでない限り、すぐにもニコニコ顔で話に加わる、それほどに親しまれている文字どおりの古典です。その『三国志演義』の第七十五回。樊城(はんじよう)の攻防戦で、右肘に矢傷を受けた関羽。矢は毒矢で毒はたちま
Author: 玄素 Year 1987 Issue 3 PDF HTML
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4. 謝安に勝算あり!?
三国時代は、魏を“のっとって”晋(しん)を興した司馬炎(しばえん)の呉攻略によって終わりを告げます。都を洛陽に置いた晋は、北方諸民族の反乱がもとで、三一六年、四世で滅び、難をさけて長江以南に移った中原の人びとに推戴された司馬睿(えい)が、建康(いまの南京)を都に、改めて晋を興します。以後、四二〇年に劉裕が「禅譲」のかたちで晋の帝位を奪い、南朝の宋を建てるまでの約百年間が東晋と呼ばれる時代です。囲碁
Author: 玄素 Year 1987 Issue 4 PDF HTML
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5. 囲碁狂の梁·武帝
南北朝時代の南朝·梁の武帝·蕭衍(しようえん)(在位五〇二~五四九年)は、若い時から学問好きで、特に文学にすぐれ、博学多才の君主として中国の文学·芸術史にもその名を留めています。辞賦、書、陰陽などにも通じていた武帝の何よりの“腕じまん”は、囲碁でした。史書には「棋、逸品に登る」と記されています。「囲碁賦」一篇、『棋法』一巻の著があり、当時、国手だった柳惲(うん)に命じて、広く棋譜を集めさせ、二百七
Author: 玄素 Year 1987 Issue 5 PDF HTML
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6. 中日試合 唐代から
囲碁が、いつ日本に伝わったのか、正確な時期は、はっきりしていません。七三五年(天平七年)に、吉備真備(きびのまきび)が唐から持ち帰ったとする説がありますが、すでに早く、中国の南北朝時代に朝鮮半島を経て、日本に伝わっていた、とする説のほうが有力のようです。『源氏物語』には、宮中での「碁あそばす」様が描かれていますから、平安時代には、皇族、貴族の間に、碁がひろく普及していたことが分かります。さて、史上
Author: 玄素 Year 1987 Issue 6 PDF HTML
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7. 王積薪と囲碁十訣
唐代は、中国古代文化が美しく花ひらいた時期でした。囲碁の隆盛も、唐代をひとつのピークにしています。中国の歴史上ただ一人の女帝として大唐帝国に君臨した武則天(則天武后)も、碁の愛好者で、武則天の時代に、はじめての「プロ棋士制度」ともいえる「棋待詔制度」が確立しました。六月号で紹介した最初の中日公式戦で、日本の王子に苦戦した顧師言も、「棋待詔制度」によって、待詔となった名棋士だったのです。棋待詔は、皇
Author: 玄素 Year 1987 Issue 7 PDF HTML
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8. 棋待詔も楽じゃない
宋は、現在の開封に都した北宋と、金に圧迫されて江南に移り、臨安(現在の杭州)に都した南宋と、前後あわせて三百年に及びますが、文化的には唐の伝統を受けついだため、碁は、理論面でも技術面でも、かなりの進歩をとげました。唐代に始まった棋待詔の制度が、そのまま宋にも受けつがれ、棋待詔というプロ棋士最高の地位をあらそって、多くの腕自慢が知恵をしぼります。宋代の碁の隆盛は、何といっても、棋待詔の努力に負うとこ
Author: 玄素 Year 1987 Issue 8 PDF HTML
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9. 朱元璋と「模倣棋」
フビライの率いる蒙古鉄騎兵が、ユーラシア大陸を席巻したのは、十三世紀後半のこと、人類史上空前の大帝国、元朝が成立します。元朝九十数年の統治下、漢族の知識人は、「一落千丈」、地位は乞食(こじき)よりひとつ上、というみじめなありさまでしたから、中原の伝統文化も中断され、囲碁の歴史も頓挫(とんざ)してしまいました。それでも、元代の後期になると、蒙古族の貴族の間に、漢族の文化が浸透し、ようやく囲碁の復興を
Author: 玄素 Year 1987 Issue 9 PDF HTML
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10. 清代の棋聖黄竜士
明末、過百齢が中国の棋壇に覇をとなえてから清の四代皇帝、康熙の初期までの五十年間は、いわば中国囲碁史上の戦国時代といったところ。盛大有、周懶予、周東侯、汪漢年、……。いずれ劣らぬ勇将がしのぎを削り、今日の囲碁に直接つながる太い流れの源を切りひらいたのです。この戦国時代を治め、群雄を平らげて棋壇を統一したのが、清代に棋聖と呼ばれた黄竜士でした。文人名士の“無記名投票”で選ばれた清代の十四聖人の一人と
Author: 玄素 Year 1987 Issue 10 PDF HTML