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日本演劇協会常任理事
戸板康二] Total 5 Search Results,Processed in 0.097 second(s)
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1. 三たび中国を訪れて
私は一九五五年に、訪中歌舞伎団の随伴者として、はじめて中国にまいりました。市川猿之助(二代目)一座は、北京·上海·広州で、「勧進帳」「吃又」「男女道成寺」の三演目を公演したのですが、十年前に没した猿之助氏は、死ぬまで、私に会うたびに、もう一度中国に行きたいねえと、いつもいっていました。それは、歌舞伎団を迎えて手あつくもてなしていただいた中国の方々をなつかしむ心持と、さらに、歌舞伎を見おわったのちに
Author: 日本中国文化交流協会常任理事 日本演劇協会常任理事 戸板康二 Year 1973 Issue 7 PDF HTML
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2. 中国卓球代表団の訪日と文化大革命の勝利
プロ文革中、日本のマスコミは一部をのぞき正確な事実を伝えなかったばかりでなく、故意にこれをねじ曲げて報道したため、多くの日本人民はプロ文革の意義を正しく理解することが不充分であった。とはいえ、あらゆる困難にうち勝って日中両国人民の戦闘的友誼のために努力した人びともたくさんいた。このために日中両国人民の友好を願い国交回復を望む人びとは非常に多い。その日本人民に中国卓球代表団は新たに勇気をあたえ、たが
Author: 日本中国文化交流協会常任理事·松山バレエ団団長 清水正夫 Year 1971 Issue 7 PDF HTML
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3. 延安精神万歳!
一九六五年六月、私が丁度延安を訪れていた時、中国人民解放軍は階級章を廃止して、長征のころの労農赤軍の懐かしい赤い襟章だけの姿になった。この時の感激を今も忘れることは出来ない。一九六六年十月、再び延安を訪れた。当時、旧北京市委員会、旧文化部、旧宣伝部の黒い一味はすでにつまみ出され、プロ文革の高まりが嵐のように燃え上がった時だった。紅衛兵が革命の聖地延安をめざして西安から山や谷を越え、続々と歩いていた
Author: 日本中国文化交流協会常任理事松山バレエ団団長 清水正夫 Year 1972 Issue 5 PDF HTML
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4. もり上がった日中友好ムード
「友誼が第一、試合は第二」名古屋で開催された第三十一回世界卓球選手権大会に中国が参加するまでの道は、けっして平坦なものではなかった。主催国日本が会長の地位にあった「アジア卓連」には蔣介石一味が加盟しており、そのために中国は脱退するという経緯があったからである。「二つの中国」あるいは「一つの中国と一つの台湾」を認める日本卓球協会の主催する世界選手権大会に参加することは、日中友好の不可欠の基礎である「
Author: 中国卓球代表団歓迎委員会委員長·日本中国文化交流協会常任理事 西園寺公一 Year 1971 Issue 7 PDF HTML
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5. 十年目の中国
ぼくの中国訪問は、こんどが二回目である。十年前には、先代市川猿之助一座の歌舞伎団の訪中公演に随行して、十月一ヵ月、北京と上海と広州を歩いた。こんどぼくの参加した訪中日本演劇家代表団は秘書長の白土吾夫氏を加えて七名で、この前のような多人数でないためもあり、中国側の招きで、北京の昔から名代の食べ物屋などにも、しばしば案内され、しにせの名物を玩味できたのも幸せだった。それから、時間がすこしある時に、北京
Author: 戸板康二 Year 1965 Issue 5 PDF HTML