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Your search : [ author:扈進] Total 11 Search Results,Processed in 0.116 second(s)
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1. 「好漢(ハオハン)組」をうちまかした「老少(ラオサオ)組」
「農業は大寨に学ぼう」これは中国では誰でもよく知っているスローガンである。大寨(ダーザイ)村というのは、中国北部の山西省昔陽県にある大寨人民公社にぞくする生産大隊のこと。この生産大隊の戸数は八十三、人口四百五十余人、耕地面積八百四十六ムー(一ムーは六·六六七アール)、一人あたりの耕地面積一·六ムーである。この小さな山村である大寨が全国にその名を知られるようになったのは、解放後のことで、それも協同化
Author: 扈進 Year 1976 Issue 1 PDF HTML
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2. ぜったりに後もどりはしない
年がたつのは早いもので、一九五二年になった。「老少組」の子供たちも三十歳前後の若者になり、互助組の中核となった。また、大寨(ダーヅアイ)の党支部は闘争の中で新しい党員を育て、ゆるぎない戦闘的な指導部としてその役割をはたしていった。陳永貴は党支部書記をつとめていた。鉄砲水にみまわれてその年、作物の出来はとりわけよく、今年も豊作だ、とみんなは喜んでいた。それが八月下旬になると、天災にみまわれてしまった
Author: 扈進 Year 1976 Issue 2 PDF HTML
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3. 協同化をあざす新しりたたかり
最初の申請大寨村(ダーヅアイ)の貧農·下層中農は、「中国共産党中央委員会の農業生産互助協同化に関する決議」を数日間学習して、毛主席の英明き、偉大さを身にしみて感じた。毛主席は、いつも肝心かなめなときがくると、貧農·下層中農に進むベき方向をさし示してくださる。陳永貴(チエンユングイ)と党支部委員のもとには組合加入を申し込む人があとをたたなかった。人びとは陳永貴、梁便良(リヤンベンリヤン)、賈進才(ヂ
Author: 扈進 Year 1976 Issue 3 PDF HTML
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4. 荒れ果てた谷間を耕地に
解放前の大寨(ダーヅアイ)は貧しい山村として有名だった。村の背後にそびえる虎頭山(フートウサン)は、長い年月にわたって洪水にあらわれるうちに、八つの尾根と七つの深い大きな谷をつくりあげた。そのため、村の耕地七百ムー(一ムーは六·六六七アール)は四千七百ヵ所にたち切られ、七つの谷、八つの尾根、一つの斜面に散在するようになった。もっとも大きな二つの畑でも二ムーどまり、小さい畑は〇·一ムーどまりであった
Author: 扈進 Year 1976 Issue 4 PDF HTML
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5. 三たび狼窩掌にいどむ
かげ口は誰がたたくのか?夕食をすませてから陳永貴(ツエンユングイ)は、会議をひらくために、主な幹部数名と協同組合の事務所にいった。しばらく待ったが、集まった組合員は十人にもみたない。で、陳永貴は梁便良(リヤンベンリヤン)、賈来恒(ヂヤライヘン)に呼びに行かせた。やがて組合員がつぎつぎに会場へ顔をみせた。どうやらみんなそろったようなので、陳永貴は会議を始めると前置きして、「今夜は全組合員の会合だが、
Author: 扈進 Year 1976 Issue 5 PDF HTML
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6. 百年らいの大水とたたかう
一九五八年、大寨村(ダーヅアイ)にも人民公社化の波がひろがり、組合は人民公社の生産大隊にかわった。人民公社の誕生は、たちおくれた山村の姿をかえる大寨の人びとの歩みをいっそう早めた。一九六二年になると、八つの尾根と七つの深い谷間に分散していた四千七百余ヵ所の畑は二千九百余の新しい段々畑にかわった。七つの深い谷間と十をこえる小さな谷間は数多くの石垣でくぎられ、石垣と石垣とのあいだに土を埋めてつくった、
Author: 扈進 Year 1976 Issue 6 PDF HTML
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7. わるい事をよい事にかえる
水害に見舞われてなぜめでたいのか日が暮れていった。陳永貴(ツエンユングイ)がクラブに入っていくと、クラブの中は活気づいた。待ちに待った指導者の姿をみて、みんなが口ぐちにかれの名を呼んだ。老人たちはかれの手をとり、服をひっぱって話しかけた。洪水にいためつけられた階級兄弟の姿を見て、陳永貴は心が痛んだ。だが、かれは元気よくみんなにあいさつした。「みなさん、元気でなによりです」それを聞いて、すすり泣きを
Author: 扈進 Year 1976 Issue 7 PDF HTML
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8. きびしい試練
社会主義教育運動工作隊が村にきた百年らいの洪水とたたかった大寨(ダーザイ)村では、村びとの努力がみのって、一九六四年の秋には豊作をおさめ、虎頭山(フートウサン)のふもとの公社員たちはみな喜びにひたっていた。ある日、陳永貴(ツェンユングイ)は、県の指導機関からの電話をうけとった。「社会主義教育運動が始まったので、省の指導機関から派遣された社会主義教育運動工作隊がちかく大寨村にゆく」という知らせだった
Author: 扈進 Year 1976 Issue 8 PDF HTML
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9. 社会主義教育運動のなかの闘い(第九回)
工作隊と生産大隊党支部との論争大寨生産大隊にきて、社会主義教育運動をすすめていた工作隊の邢隊長は、公社員の労働点数を記録した帳簿に「不正」を発見した。その翌日の午後、農作業をおえて帰ってきた梁便良(リヤンベンリヤン)はその足で工作隊本部へいそいだ。社会主義教育運動をすすめる段取りを相談するためであった。かれが部屋へ入っていくと、邢隊長は言った。「梁さん、農村の末端組織の情況はとても複雑だと上の方で
Author: 扈進 Year 1976 Issue 9 PDF HTML
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10. 大寨の赤旗はさらに色あざやかに
修正主義の逆流に立ちむかう農村での社会主義教育運動をめぐって、プロレタリア階級とブルジョア階級の二つの階級の闘争がはげしさをましているときであった。人びとを励まさずにはおかぬニュースが大寨に伝わった。陳永貴(ツエンユングイ)が、第三期全国人民代表大会に出席するため、毛主席のおられる北京へゆくことになったのだ。その夜、陳永貴は村はずれの飼育場で、党支部大会を主宰していた。どの党員も厳粛な面持で会議に
Author: 扈進 Year 1976 Issue 10 PDF HTML