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Your search : [ author:労働者 傅之貴
え·陳衍寧] Total 39 Search Results,Processed in 0.106 second(s)
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1. “補佐役”
三日間にわたって開かれた党の地区委員会拡大会議が終わった。一〇三工場党委員会副書記の劉本夫は会場を出ると、地区委員会組織部副部長の楊徳祥の姿をふと見かけ、足早にその後を追った。「楊くーん」と大声で呼びながら、人の群れをぬって近づいた。「二、三日見かけなかったが……」楊徳祥も大またに歩みよってきて、劉本夫の手をとるなり、はずんだ声で、「やあ、劉さん!いま省の会議からもどったばかりなんですよ、あ、そう
Author: 労働者 傅之貴 え·陳衍寧 Year 1974 Issue 10 PDF HTML
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2. 機械の主人公になる
解放後、上海(シヤンハイ)のある小さな私営工場から、国営の慎昌(シエンチヤン)工場にうつつたばかりの頃は、ぼくには何もかもが目新しいものばかりだつた。大きな工場の建物。整然とならんだ機械。四方の窓からさしこむ日差しに、機械はキラキラと光り、一日じゆうごうごうとうなりをたてている。さあ、今度こそは本当に機械技術を身につけて、本物の機械工になれるぞ、とぼくは思つたものだつた。ところが、いざ仕事の割り当
Author: 上海労働者 李福祥 Year 1961 Issue 6 PDF HTML
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3. 家族委員会の主任さん
一二〇五号電線路の架設工事がはじまってまもないときである。どの班も人手不足を感じていた。これは人員の配置をうけもつわたしにとって頭痛のタネだった。偉大な祖国の社会主義建設事業は飛躍的な発展をとげている。工業も農業も活気にあふれ、多忙をきわめているのだ。どこに人手をもとめたらいいのか。報告書を書いて生産指揮部にそのむねを知らせるほかに道がなかった。とつぜん、おもての方でひくい声で言いあっているのがき
Author: 労働者 尹一兵 え·郝戦 Year 1971 Issue 9 PDF HTML
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4. 階級の憎しみを永久に忘れまい
わたしのふるさとは広東省の嶺水県だ。先祖代々、貧しさにせめさいなまれ、父は所帯をもつとまもなく国民党の軍隊にひったてられ、包頭につれていかれて鉄道工事をさせられた。村でくらしていけなくなった母は、物乞いの旅をして父のもとをたずねた。一家の者はひとつ屋根の下でくらすようになったが、食うや食わずの生活にかわりはなかった。わたしが生まれて八ヵ月目に、母は世を去った。そして五つのときに、父も母のあとを追っ
Author: 天津計測器工場の労働者 鄧子平 Year 1971 Issue 1 PDF HTML
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5. わたしたちの一家
わたしの郷里は山東省の威海県です。漁師の父は網元からさんざん抑圧、搾取、虐待された人です。あるとき漁に出たまま、あらしにあって船もろとも帰らぬ人となりました。生きてゆくために上の兄も父のように漁師になりました。夜昼となく働いても、一家はカユさえろくにすすれないありさまでした。ある雷雨の日に、一家の飢えたすがたをみていられなくなって、暴雨のなかを漁に出ようとして、船着場で雷にうたれ、命をおとしてしま
Author: 瀋陽毛織物工場の労働者 劉蓮子 Year 1971 Issue 3 PDF HTML
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6. たえず矛盾を解決して前進する
わたしは吉林化学工業公司第一化学工業建築公司の配管工です。毛主席の哲学著作を学びはじめたのは一九五八年からである。それから十数年、毛主席の輝かしい哲学思想で武装し、それを生産闘争·階級闘争·科学実験の三大革命の指針として、ひきつづき革命をおこなう途上で直面した数々の困難にうち勝ち、矛盾を解決してきた。革命闘争の実践を通じて、「革命とは矛盾を解決することである。解決した矛盾の大小によって勝利の大小が
Author: 化学工業建築労働者 李国才 Year 1971 Issue 5 PDF HTML
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7. 地獄から解放されて
わしは天津化学工場で働いている労働者じゃ。ふるさとは、この天津市の南郊外にある葛沽鎮。一九三九年、わしの二十九歳のときだった。家はひどい貧乏で、耕す畑とてなく、地主のところの菜園を小作しておった。ほんとうに死にものぐるいで一年中働きづくめに働いても、腹いっぱい食えず、着るものもなかったものじゃ。それでいて、借金ができてしもうた。「物をすっかり売り飛ばしても借金をかえせ!」と地主のやつめにせめたてら
Author: 天津化学工場労働者 蘇玉勤 Year 1971 Issue 5 PDF HTML
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8. 世の中は変わった
わしのふるさとは河北省寧晋県。幼い頃のわが家の財産といえば瘦せた畑が三ムー(一ムーは六·六六七アール)ばかりと、二間のボロ家があっただけだ。父と母は働きづくめに働いていた。それでも腹いっぱい食えず、ひもじい思いをしていた。わしが十歳になったとき、母は飢えと病気のために死んでしまった。父は母をほうむるお棺を買うため、富農の王群勝から五元借金した。それが二年もたたないうちに、利子に利子がかさみ、三ムー
Author: 石景山発電所古参労働者 趙慶海 Year 1971 Issue 6 PDF HTML
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9. わきたつ柴達木(ツァイダム)
青海省の柴達木(ツァイダム)盆地の西部にゆくと、そこは、わきたつばかりの活気にみちている。林立するヤグラ、地をおおうドラム罐、クモの巣のように走る送油管、昼夜のべつなく物資を満載してゆきかうトラックの姿がそれである。この地の石油労働者は、わずか一年半のあいだに、新しい油田の開発に成功した。それは海抜三千メートルをこえる山また山の山間地帯にある。勇敢な調査隊青海の石油労働者がツァイダム盆地の西部でボ
Author: ―青海省の石油労働者による油田開発 Year 1971 Issue 8 PDF HTML
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10. 儒家に反対した明代の進歩的な思想家 李贄(リーヅー)
明の嘉靖、万暦年間(一五二二~一六一九年)になると、中国の封建制社会は末期にはいった。封建制度は腐敗と衰退の一途をたどり、資本主義の萌芽がみられるようになった。土地の兼併がはげしくおこなわれ、税金が重かった。破産し、流浪をよぎなくされた多くの農民は、政府に抗して立ちあがった。中·小地主は大地主に排せきされ、その地位は不安定なものとなっていった。都市でも住民の暴動があいついだ。農民蜂起による大きな打
Author: 北京人民印刷所労働者理論グループ Year 1975 Issue 11 PDF HTML