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Your search : [ author:写真·文 歩鉄力] Total 492 Search Results,Processed in 0.094 second(s)
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1. 母子4人で出稼ぎ6年
私は汪文秀といいます。五十四歳です。家は安徽省の農村なんですが、一九八九年から北京に出稼ぎに来ています。夫は村営学校の教師で、給料がとても安いんですよ。それに長男が結婚することになりまして、その資金もいる。改革開放以来、私たちの村でも都会に出稼ぎに行く者が年々増える一方で、娘たちがウチも行こう、と言うんです。あの子らには都会へのあこがれもあったんでしょうが、畑仕事もあるし、八十過ぎたおばあちゃんも
Author: 写真·文 歩鉄力 Year 1995 Issue 7 PDF HTML
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2. コンピューターで囲碁対局棋力はイマイチですが……
まずは上の写真を見て下さい。何台かのパソコンの前に人が腰かけていて、その間に碁盤が一面置いてあるのに、なぜかそこには人がいません。後ろで立って見ているいちばん左の人、中国囲碁界のナンバーワン·聶衛平さんの視線も、はっきりパソコンの方を向いています。そう、これは先ほど北京で行われた第六回国際コンピューター囲碁大会の一こまで、いま対戦しているのは、手前がポーランドのクラセク選手、碁盤の向こうが日本の吉
Author: 写真 歩鉄力 Year 1991 Issue 3 PDF HTML
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3. 長城飯店で「納涼 スイカ祭り」 北京市民の消費量 一夏50キロ
北京は十一月に入り、一歩一歩厳しい冬を迎えようとしている。この季節になると、思い出されるのが、猛暑のなかで口にした北京のスイカのうまさだ。北京の夏は長い。五月はすでに初夏。六月、七月、八月と連日暑い日が続き、九月中旬になってようやく秋の気配が感じられ涼しくなる。ことしの夏は、中国南部が建国以来最大の水害に見舞われ被害甚大だったが、北京は自然災害はなかったものの、例年と違って蒸し暑く、熱帯夜が続いて
Author: 写真 歩鉄力 Year 1991 Issue 11 PDF HTML
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4. 先祖と交わる原始の銅鼓
中国南西の辺境、雲南省の文山チワン族ミャオ族自治州は、長く交通が未発達で、訪れる人はほとんどいなかった。そのため、少数民族のいままで知られていなかった風俗習慣が幸運にも保存されていて、ため息が出るほどの民俗遺産の宝庫となっている。麻栗坡県新寨村と城寨村のイー族の支族である白倮(ルオ)人は、その典型的な一例だ。イー族は、中国で人口が比較的多い少数民族の一つで、歴史と地域環境などの要因によって、支族は
Author: 文·写真 歩鉄力 Year 2002 Issue 1 PDF HTML
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5. 北京市戒台寺の古いリラの木
今年の春、北京市の戒台寺公園が中国科学院植物研究所の専門家に頼んで、寺にある老木を調査してもらったところ、二十本ほどのリラ(ライラック)の木が樹齢二百年以上であることが分かった。戒台寺は北京の中心街から西に三五キロほど離れた馬鞍山にあり、一四〇〇年の歴史をもつ仏教の名刹である。初めの名は恵聚寺で、明代に万寿禅寺の名がつけられたが、ここには全国で最大の仏教戒壇があるので、一般には戒壇寺とか戒台寺の名
Author: 写真·歩鉄力 文·若虹 Year 1997 Issue 8 PDF HTML
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6. 食文化の旅 秦淮河風味の小吃
南京市内を流れる秦淮河は、遠く秦の時代に開削された運河。江南の貴族文化が欄熟した六朝の時代(三世紀初め~六世紀終わり)から、その両岸に高殿や酒楼が軒を並べ、明清の時代(十四世紀半ば~二十世紀初め)になってさらに栄えた。いまも南京で指折りの繁華街として、正月や節句には三十万入からの入出で賑わう。中でも夫子廟地区は、食文化の中心ともいうべきところρ古い歴史を誇る料亭、茶荘、酒楼、小吃(一品料理)店など
Author: 写真·文狄華 Year 1992 Issue 1 PDF HTML
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7. 揚州の三大料理
かつて日本の遣唐使が上陸した揚州。鑑真和上の生地であり、若き日の和上が修行した大明寺のある揚州長江に、揚子江という別名を与えるもとになった揚州。.「故人西のかた黄鶴楼を辞し、煙花三月揚州。に下る」という李白の詩心有名だ。揚州は遠く紀元前五世紀に呉王夫差が築いた町。唐代には江南随一の大都会として栄え、家々に鶴が飼われていたという。「腰に十万貫を纏い鶴に騎って揚州に下る」という詩には、大金を持った男が
Author: 写真·文秋華 Year 1992 Issue 3 PDF HTML
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8. 北京で味わえる地方料理東坡肉(浙江料理)
浙江省の料理としてよく知られているのが、この東城肉です。すでに900年以一f”の歴史をもつ名物料理。宋代の大文豪、蘇東披に由来する料理でもあります。左遷させられて杭州の地方官となった蘇東士皮は、西湖にf.手を築いて農地にかんがいし、人々に幸福をもたらしました。ある日、豚肉と紹興酒を贈られた東城は、家人にこれを料理して労働者に届けるよう言いつけます。家人は肉と酒を一緒に料理するものだと思って作ったと
Author: 写真·文 狄華 Year 1992 Issue 6 PDF HTML
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9. 武昌の魚料理
誰でもょく知っている武昌魚。毛沢東が「長沙の水を飲み、武昌の魚を食べる」と詩に詠んだところから名を馳せるようになった。誰もが一度は食べてみたいと思う魚だ。武昌魚の名は千七百年以上も前の古書にも載っている。昔も今も、多くの詩人墨客が詩に詠んでほめたたえている魚である。学名は妨魚(トガリヒラウォ)。湖北省武昌の梁子湖でとれる。この湖と長江の間に短い川があるが、毎年秋になると、湖の魚は湖水とともに長江に
Author: 写真·文 狄華 Year 1992 Issue 7 PDF HTML
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10. 湖北の手づくり豆腐
中国人は豆腐料理が大好きだ。栄養価が高い上に値段も安いというのが、その最大の理由だが、残念なことに、このごろはすっかり機械生産となり、手づくりの、あるいはロバに大豆を挽かせて作った豆腐というものが、ほとんど姿を消してしまった。だが、ここ湖北省は省都武漢から数十キロ西北に行った孝感、雲夢、応城、漢川のあたりでは、豆腐はいまでも手づくりが普通。味にこくがあるのはもちろんのこと、工芸品と言ってよいほど凝
Author: 写真·文秋華 Year 1992 Issue 8 PDF HTML