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伝説の桃源郷シャングリラ

Year:2007 Issue:12

Column: 【茶馬古道の旅】⑩

Author: 馮進=文·写真

Release Date:2007-12-05

Page: 54-57

Full Text:  

神秘のシャングリラという魅惑的な名を耳にして久しい。その魅力とはいかなるものなのだろうか。
シャングリラ県はもともと中甸と呼ばれていた。標高約三千四百メートル、面積一万一千六百十三平方キロメートルの土地で、雲南省、四川省、チベット自治区の境に接する迪慶チベット族自治州の中部に位置する。チベット族を中心に、漢族、ナシ族(納西族)、イ族(彝族)、ペー族(白族)など十を超える民族、合計十三万人が住んでいる。山林がびっしりと広がっているが、広さのわりにこの土地の住民は多くはない。



①シャングリラの美しい納帕海

①シャングリラの美しい納帕海

「シャングリラ」という言葉は、チベット仏教の経典に見える香巴拉(シャンバラ)王国にその源が求められ、チベット仏教の最高境地とみなされている。アメリカの作家ジェームズ·ヒルトンの小説『失われた地平線』に描かれた人間の楽園、桃源郷のようなシャングリラは、中甸の自然、文化、生活によく似た部分がある。このため、かの小説に描かれているシャングリラは、雲南·チベット高原にある中甸であると人々は信じている。歴史的にはチベット語で建塘と呼ばれ、言い伝えによると、四川省の巴塘、理塘と並んで、チベット王の三人の息子の領地だったという。一九五七年九月に迪慶チベット族自治州が成立して中甸は州都となり、二〇〇一年に名前をシャングリラ県とあらためた。


ドゥクゾン古城の四方街で踊りを楽しむ観光客と現地のチベット族の人々

ドゥクゾン古城の四方街で踊りを楽しむ観光客と現地のチベット族の人々

「月光城」―ドゥクゾン

十月の雲南·チベット高原は、ひしひしと寒気が迫ってくる。日が沈むと温度が急激に下がり、冷たい山風に頬を打たれ、思わず身震いする。荷物を駐在地に置き、慌しく服を着込み、町のヤク鍋の店で夕食を取ることにする。せわしい一日を過ごし、すでに腹ぺこだ。小さな店の中は湯気が立ちのぼり、大勢の客であふれかえっている。夕食を終えると、人々は三々五々群れをなして古城の中へと消えてゆく。

中甸の街は新城と旧城からなる。団結通りを軸に、北は新しい市街地となっており、ひっきりなしに往来する車とにぎやかな商店街は、内地の県と変わらない。南は千年の歴史を誇るドゥクゾン古城で、建塘鎮とも呼ばれ、八つの花びらのハスに似た配置となっている。言い伝えによると、向かいの山から見た大亀山の形が、ハスの上に座っている大法師の姿によく似ていることに気づいた生き仏が、この古城を建てたという。城内の三つの大通りと三十三の横町が織りなすくねくねと入り組んだ道は、現地の人でなければすぐ道に迷ってしまう。

でこぼこした石畳の道に沿って歩いたが、街の両側に並んでいる店のほとんどが閉まっていた。薄灯りに照らされた古城のあちこちから立ち上る炊事の煙が、白い壁と杉の板でつくられた屋根のチベット民居の質朴さを引き立てる。旅館、茶楼、バーの灯し火が古城の夜に活気をみなぎらせている。各地から訪れた観光客は静かで安らかなここの雰囲気を気に入り、濃厚な高原チベット族の趣を楽しんでいる。これらの建物はほとんどが民家を改装したチベット民居の風格を残した内装で、竜と鳳凰、花鳥および八吉祥図が彫られたドアや窓、そして部屋にある家具にもチベット族の特色が強く感じられる。外壁は地元の白い粘土を塗ったもので、美しいだけでなく、外壁を守る役割も果たしている。白い城壁が月明かりに照らされると城全体が非常に明るくなるため、人々はここをチベット語で「月光城」という意味の「ドゥクゾン(独克宗)古城」と名づけた。


②静謐なドゥクゾン古城

②静謐なドゥクゾン古城

六七六年から六七九年にかけて、吐蕃が南下し、中甸を流れる金沙江の上に鉄の橋を掛け、雲南·チベット間を行き来する道路を貫通させた。また雲南の北西部に、十六の軍事要塞を設けた。これらの施設はまとめて鉄橋十六域と呼ばれている。現在古城の朝陽楼のある亀山は、当時の吐蕃の鉄橋東城である。吐蕃は高原の牧畜、水利、製錬技術を中甸および雲南北西部に伝え、南昭の伝統技術と茶葉もキャラバンによって中甸を経て吐蕃に伝わった。そのため、中甸では早くから畜産品と茶葉の交易活動が行なわれていた。

明代に至り、麗江の木氏一族の土司(当時の少数民族の族長)が中甸を占拠してから、雲南商人が毎年麗江、鶴慶、大理、普洱から大量の茶葉、砂糖、銅器および食糧を、中甸、康南、江卡、塩井などに運び、現地で販売した。またチベット族地区の畜産品、酥油(羊や牛の乳を煮詰めて作ったバター)、チベット香および冬虫夏草、麝香(じゃこう)など漢方薬の材料を買って帰った。こうして次第に貿易が盛んになっていった。

清の康煕二十七年(一六八八年)、チベットは中甸に交易市場を設立。以来、雲南、四川、チベットからの商人やキャラバンがどっと集まるようになり、中甸は雲南·チベット商品の集散地のひとつとなった。


①陶器の白地を作る職人

①陶器の白地を作る職人


②伝統的な黒陶製作道具

②伝統的な黒陶製作道具


③店先に並んださまざまな黒陶製品

③店先に並んださまざまな黒陶製品

北門街六十六号の民家を訪れた。二階建ての古いチベット式の木造建築である。回廊の横梁に彫られた、とぐろをまく五匹の竜が人目を引く。齢七十を超えたというその家の主人アブワントゥイさんは、部屋の外に座って居眠りをしていた。われわれの訪問で起こしてしまったが、茶馬古道について知りたがっていることを聞くと、キャラバンの話を聞かせてくれた。

かつて迪慶からやってきた馬鍋頭(馬方の頭)はチベット語がわかり山道をよく知っているため、非常に人気があった。チベットに入るキャラバンは普通旧暦の四月から五月の間に出発し、再び帰ってくるまでには、少なくとも半年近くかかる。出発前、店の主人は心遣い示すために、馬鍋頭に布製の服一着と皮靴一足を贈る。さらに徳欽に到着すると、店の中継所で楚巴(チベット族の服装)が配られる。続いてラサに着くと、防寒のチベット族の服とコーデュロイが何尺か配られる。道中、キャラバンは規模の異なるさまざまな馬宿で、休憩、調整する。チベット族地区に運ぶのは沱茶(だちゃ)、黒砂糖、食品などが中心で、雲南に持ち帰るのは主にインド産の綿布、薬品、雑貨などである。キャラバンがチベットから無事に帰ると、馬鍋頭は店の主人から報酬として三十枚の銀貨をもらえる。店のキャラバンで三年以上にわたって走り続けた馬方は、ラバ一頭を与えられる。年月を重ねるうちに、自分のラバや馬を数頭持つようになった馬方は、キャラバンを脱して自ら馬鍋頭となるのである。

湯堆村の黒陶

シャングリラ県を出て、茶馬古道を北西に向かっておよそ三十キロメートルほど走ると、湯堆村という歴史ある黒陶(こくとう)製作の村がある。乾熱河谷地域(気温が高く乾燥した河谷地域)に位置し、百四十数世帯、人口七百人を超える村である。村人全員がチベット族で、うち二十二戸が専門で黒陶を製作している。

一九七〇年代から九〇年代にかけて、雲南省の文物·考古の専門家が相次いで徳欽、シャングリラの多くの村で早期石棺墓の黒陶副葬品を発掘、出土した。中でも「大鑑耳」陶製の壷は、現在湯堆村で焼かれている黒陶と共通するところが多い。これを見る限り、二千年あまりも前の春秋·戦国時代(紀元前七七〇~同二二一年)に、この地の原住民がすでに黒陶の製作技術を身につけていたということが推測できる。

ニーシー(尼西)を通るとき、道路の両側にたくさんの黒陶製作の工房が目についた。中にさまざまな黒陶製品が並んでいる。「シャングリラ竜巴湯堆土陶」という店の前で足を止め、黒陶製作の過程を見学した。

黒陶の製作は簡単そうに見えるが、実は十以上もの工程があり、使用する道具だけでも五十種類以上を数える。まず風化した砂や石を細かく砕いた石粉を、白い粘土と赤い粘土と混ぜて原料をつくる。次にその原料の土を天日で干し、陶製の杵で細かく砕く。最後に土をふるいにかけ、かき混ぜ、こねて円状の陶土にする。ここからようやくさまざまな形の器の製作に入る。焼く過程も風変わりである。窯に入れて焼くのではなく、地面と垂直に支えられた薪の上に架けて焼く。陶器を焼きながら、絶えず薪の周りにリンゴの木の枝や栗の木の枝を加える。さらに通気性をよくして燃焼を助けるため、高く積んだ薪を長い棒で突いたりしなければならない。やがて薪が燃え尽きると、陶器も出来上がる。続いて速やかにおが屑の灰の中に入れ、色が黒に変わったら灰から取り出す。五分ほど冷やしてから、松の木の枝で熱いヨーグルトのうわずみや重湯を手早く陶器の内壁に塗りつける。水や油などが滲みこむのを防止するためである。こうして黒陶が出来上がる。


④家で木椀に絵を入れる上橋頭村村民のルロンチュマさん

④家で木椀に絵を入れる上橋頭村村民のルロンチュマさん


⑤各種の木椀製品が並ぶルロンチュマさんの家

⑤各種の木椀製品が並ぶルロンチュマさんの家

店の主人のゲサンダワさんが、黒陶について紹介してくれた。「以前作った黒陶は、鍋、火鉢、土鍋、お茶を煎じる壺など多くが日常用品でした。黒陶の何よりのすばらしさは、通気性がよいということです。料理やご飯を一晩中いれたままにしておいても、腐ることはありません。今では簡単な日常用品のほかに、さまざまな手工芸製品も作れるようになりました。それが観光土産の目玉商品となっています」

ゲサンダワさんは小さな黒陶の釜を手に、こんな話もしてくれた。

「このミニ釜の原型はわれわれチベット族の民家にある三つの口のある釜です。現在でもチベット族の家庭で愛用されています。可愛らしいお土産用品として売り出したところ、観光客に非常に好評でした。食器、炊事道具、茶器、酒器および香炉、酥油ランプ、お茶を煎じる壺などチベット族地区の生活必需品も黒陶で作られるため、非常に大きな需要があります。黒陶製作で、一人あたり年に三万元から四万元を稼ぐこともできます」

上橋頭村の木椀

上橋頭村は徳欽までおよそ百五十キロメートルの、崗曲河谷の入り口に位置している。中国労農紅軍の「長征」で賀龍将軍が率いた第二軍団、第六軍団がここを通ったことがある。現在でも村の入り口の橋のたもとに「紅軍橋」の文字が残る。この小さな村で作られる木椀は非常に有名なものである。当時茶馬古道でチベット、四川に運ばれた貨物のなかにも上橋頭村の木椀があり、「シャングリラの木椀村」と呼ばれていた。

村に住む三十七歳のルロンチュマさんは、木碗に彩色の絵を施している。部屋には八吉祥図とハス模様が描かれた各種の木椀や、「辣子盒(唐辛子を盛る容器)」「ツァンバ盒(ツァンバや茶葉を納める容器)」がところ狭しと積み上げられている。すべて中甸からの注文だという。

三十六世帯しかない上橋頭村のうち、「ツァンバ盒」を作る家は二軒、木椀を作る家は六軒ある。ルロンチュマさんの祖父は村の木椀職人であった。言い伝えによると、かつて上橋頭村の木椀は種類が乏しく、一軒または二軒の家が普通の「辣子盒」を作っていたのみであったが、ザシスナーという青年がわざわざチベットに修行に行き、戻ってきてからツァンバ盒とさまざまな木椀の作り方を村人たちに伝授したのだという。

チベット族地区には、「父と息子、母と娘、そして兄と弟は同じ椀を使わない」という習わしがある。男と女が使う木椀の様式が区別されている。男用は口が大きく外側に広がり、深くはない。女用は口がわりと小さく、細身である。チベット族の人が普段使う木椀は十二種あるという。上橋頭村で造られたものは、主にチベット族地区で売られる。

上橋頭村の木椀を作る材料は、必ず上等なクルミの木あるいはツツジの木の木材でなければならない。表面には漆の木から採った生漆を塗りつける。ひびが入ることや漆がはげることを防ぐため、三回生漆を塗らなければならない。こうすることでつやを長く保つことができるようになる。

古代、生漆で塗られた工芸品は皇室へ献上する貢物であった。村ではいまでも代々伝わってきた習わしを守り続け、生漆を塗った木椀にだけ金箔を施し、ほかの種類の漆を塗ったものには銀箔を施す。

上橋頭村での取材を終えると、次の目的地である梅里雪山を目指して、この地を後にした。

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