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実を結んだ中国登山界との交流

Year:2007 Issue:12

Column: 放談ざっくばらん

Author: 元長野県山岳協会会長、現顧問 田村宣紀

Release Date:2007-12-05

Page: 38,39

Full Text:  

長野県山岳協会と中国登山界との友好交流は、一九八一年の日本·中国合同登山研修会に始まった。

多くの高峰を抱える

中国は、世界で最も多くの高峰を持つ国である。世界の最高峰チョモランマ(エベレスト)を頂点として、第二位はチョゴリ峰(K2)。十四座ある八千メートル峰の八座までが、中国国内か国境の稜線上にある。

ヒマラヤ、カラコルム、崑崙、天山の各山脈やその他の高峰を抱える中国だが、中国における登山の位置づけは、スポーツだけではなく治山治水、農林、地下資源、国防、民族など、日本の登山とは比較にならない必要性をもっている。

しかし、中国の登山界は、とくに「文化大革命」によって十数年の空白があったのも事実である。一九七六年に「文革」が収束し、一九八〇年に中国が国内の山を外国の登山隊に開放したことで、時代は大きな転機を迎えることとなった。世界中から中国の高峰に登りたいとの希望が殺到したのだ。

しかし、中国登山協会としては外国登山隊への便宜供与と同時に、中国における登山指導者の養成も大きな課題であった。中国登山協会は、中国登山界の再建と近代化のための第一段階として、若手指導者の育成のため、広く世界の登山先進国の協力を求めた。

一九七二年、田中角栄首相が訪中して、日本と中国の国交正常化が実現し、これを機に、日本の登山界からも多くの申請が出された。次々と中国の高峰を目指す登山隊が出かけていく時代となった。

「中国を日本に呼ぼう」

実は、私たちも中国の山に登りたい夢は誰にも負けなかった。長野県は日本の代表的な山岳を有する山岳県である。しかし、当時、私たちは中国側に強力なロビーの持ち合わせはなかったし、そうした手法はあまり好きではなかった。

私たちは、中国登山協会に対して、日本·中国合同登山研修会を提案した。発想の原点は、「行きたい、登りたい」ではなく、「中国を日本に呼ぼうではないか」であった。そして、この計画は中国側のニーズに応えると同時に、長野県内の若手指導者を国際的な視野と環境の中で育成するのも目的であった。日中文化交流協会の村岡久平や、長野県日中友好協会、信濃毎日新聞社、そして、多くの長野県民からの応援や支援もあった。

中国がなぜ、登山先進国である欧州や米国を選ばずに長野という小さな相手を選んだのか。そうした疑問と驚きをよそに、この計画は、予想をはるかに上回る成果をあげた。

計画は、当初から十年間にわたって行おうというものであり、一年ごとに日本と中国の双方の山岳で、岩登りと氷雪の技術研修を目指すものであった。

「物見の岩」で技術を磨く

一九八一年春、王振華を団長とする九名が来日した。中国の団員たちの中には、人民服の姿もあった。


「女神の山」と称されるチョモラリ(綽木拉日)峰(7326メートル)。1996、日中合同チョモラリ峰登山隊は、全員登頂の快挙を成し遂げた

「女神の山」と称されるチョモラリ(綽木拉日)峰(7326メートル)。1996、日中合同チョモラリ峰登山隊は、全員登頂の快挙を成し遂げた

研修会場を長野市郊外にある「物見の岩」とした。たかだか二十メートルそこそこの岩場ではあるが、この岩は私たちの道場であり、夢を語る場所であり、すでにここからヒマラヤへの夢を実現させた心と意気が宿る場所である。

日本側の指揮官は、この計画の発案者でもある吉沢一郎(長野県山岳協会理事)だった。彼は山仲間からは「大将」と呼ばれていたが、現場での指揮は厳しかった。朝から夕方までひたすら岩と格闘した。

研修の主眼は、「登る」技術よりも「身を守る」技術の徹底であった。この考えは、中国の従来の登山観に大きな影響を与えるものだった。私たちは一見地味にも見えるこの研修の重みを理解して、知恵と力を出しあった。中国登山協会副主席の許競からは「厳しい訓練を希望する」との書簡も届いていた。

訓練が終わっても、「カンペイ」は一切なし。資金が乏しいこともあったが、宿泊は仲間の山荘を借りたり、自宅を提供したり、昼食は日本側研修員の奥さんが作るオムスビであった。

中国で育つ若い指導者

二年目の研修は、中国新疆ウイグル自治区の天山山脈ボゴダ峰で行われた。ここでは、氷雪の技術が中心となった。ここでの訓練も真剣かつ厳しいものだった。六回目の研修では、ついに七千メートルを超えた。チョモランマ峰の隣にあるチャンツェ峰(七五八〇メートル)を舞台に、高所登山の領域にも足を踏み込み、登頂にも成功した。

十年間に及ぶ日本と中国を交互に訪れて実施された合同技術研修は、中国では、主だった山岳をもつチベット自治区、四川省、青海省、新疆ウイグル自治区の若い指導者を育て、日本にも多くの指導者が育った。

当時、私は長野県山岳協会の会長の任にあったが、中国登山協会の主席であった史占春が「中国の近代登山は長野から始まった」と評価したことを忘れない。

合同研修会が続く中で、いくつかの交流事業も生まれた。高校生の登山サークルの交流(一九八八~一九九四年)へと広がり、また、一九八八年には長野県山岳協会とチベット登山協会の友好兄弟協定が締結され、記念事業として合同で未踏のチャンタン高原の登山探検隊(一九九〇年)が組織されて、ザンセル·カンリ峰(六四六〇メートル)に初登頂。同年北京市郊外の懐柔県にある中国登山協会登山訓練センターに人工岩場を寄付して、スポーツクライミング競技の先鞭の役割を果たすなど、交流は大きく広く発展したのである。

「人類は交流によって進化する」という諺があるが、日中合同登山研修会は、大木のように、合同研修会がしっかりした幹となって、いくつもの太い枝をのばし、その枝に信頼と友好という立派な葉を繁らせることができたのである。

汗の代償のロマン

時代は進み、今、中国の登山界は大きな発展を遂げていると聞く。指導者たちのほとんどは、長野で厳しい訓練を共にした友人であることを、私は嬉しく思い、また、誇りでもある。

その中国の友人たちは、長野にくると一様に「故郷に帰ったような気持ちだ」という。私もまた、中国を訪れるとき、同じような感覚を覚える。

長く登山家たちの目標であった、初登頂と初登攀(とうはん)の時代は終わりに近づいたとはいえ、登山は自分自身の中のパイオニア精神を追い求める行為である、と私は思う。流す汗を代償としたロマンの世界なのである。

そして、中国の友人たちとの友情はこれからも続いていくことだろう。

(文中敬称略)

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