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新中国初のパイロットを育てた日本人教官たちの「里帰り」

Year:2007 Issue:12

Column: レポート

Author: 高海寛=文 張東賀=写真

Release Date:2007-12-05

Page: 58-61

Full Text:  


日本の「老戦士」の「里帰り代表団」は長春に到着し、航空大学の先生と学生たちから盛大な歓迎を受けた

日本の「老戦士」の「里帰り代表団」は長春に到着し、航空大学の先生と学生たちから盛大な歓迎を受けた

中国の友人たちと再会

一九四五年に日本が降伏した後、遼寧省南部にいた関東軍第二航空第四練成飛行隊の三百余人は、行き場を失った。中国共産党に指導された東北民主連軍は、この日本兵たちを受け入れ、人道的に待遇した。

林弥一郎隊長(少佐、当時三十四歳)に率いられた彼らは、後に東北民主連軍航空学校の創立に参加し、新中国における最初のパイロットを養成した。彼らは中国の同僚たちと深い友情で結ばれた。一九五〇年代、彼らは次々に帰国したが、ずっと中国を「第二の故郷」「実家」と見なしてきた。

しかし今、彼らの中でなお健在な人も、みな年をとった。だが、中国を思う気持ちは以前と変わらず、日夜、「里帰り」を望んでいた。

彼らは代表団を結成し、今年六月六日、もう一度、中国にやってきたほとんどが八十歳前後の高齢者で、中には、心臓病を患い、家人や医者から「行くな」と言われたが、「最後に一目、中国を見られたら、倒れても本望だ」という人もいた。

宿泊先の北京のホテルには、かつて航空学校でいっしょに働いた中国の仲間や友人が駆けつけ、日本の友人たちと旧交を温めた。その中には、当時、この学校から巣立ったパイロットで、後に中国空軍司令官となった王海氏や副司令官の林虎氏もいた。また、当時、航空学校の指導者だった姚俊氏や張開帙氏らの姿もあった。

翌日、空軍の指導者たちが代表団と会見し、宴会を催し、日本の友人たちが中国空軍の創設のために貢献してくれたことに感謝の意を表した。そして「里帰り」した日本の友人たちが、「実家」の様子をしっかり見てきてほしいと述べた。

六月八日の午後、一行は天安門を参観に行った。しかし時間が遅く、すでに楼上に登ることができない。随行の人が管理の人を説得して、特別な計らいをしてもらい、一行は天安門の楼上に上ることができた。ここで毛沢東主席が新中国の成立を宣言し、航空学校が育てたパイロットが操縦する飛行機が天安門の上空を飛ぶのを検閲したのだと思うと、彼らの感慨はひとしおだった。

北京滞在中、代表団は航空博物館を見学し、当時、彼らが修理した飛行機が展示されているのを見て、感慨深げであった。そして一行は、北京から汽車で吉林省長春に向かった。

近代的な航空学校を参観

かつて黒竜江省牡丹江にあった東北民主連軍航空学校は、ずっと前に長春に引っ越し、空軍航空大学と校名を改めていた。

六月九日早朝、日本の代表団の一行が長春駅に着くと、航空大学の先生と学生たちの盛んな出迎えを受けた。航空大学は広々とし、きちんとしたキャンパスに近代的な教室や設備が整っていて、学生たちはよく訓練され、元気はつらつとしていた。前身の牡丹江航空学校とは雲泥の差で、代表団のお年寄りたちは感無量の様子だった。


①後に空軍司令官となった王海氏(左から四人目)が、「里帰り」した日本の友人たちに記念品を贈った

①後に空軍司令官となった王海氏(左から四人目)が、「里帰り」した日本の友人たちに記念品を贈った


②中国と日本の「老朋友」たちは、いつまでも話が尽きなかった

②中国と日本の「老朋友」たちは、いつまでも話が尽きなかった

一行はまず、校史陳列室を参観した。そこには当時、彼らが修理した飛行機の模型や、日本人と中国人の同僚や学生がいっしょに写った写真が展示されており、これを見た一行は当時を思い起こした。

大学の指導者が、現在の学校の状況を紹介し、日本の古い友人たちに「栄誉証書」を授与して、当時、航空学校の創設につくした功績に感謝した。代表団側も航空大学に「心系東北老航校 難忘第二故郷情」と書かれた錦の旗を贈呈した。「中国·東北につくられた昔の航空学校を思い、第二の故郷の情誼は忘れられない」という意味である。

代表団のために催された宴会の席上、李校長は「日本の老朋友(ラオポンヨウ)が母校に帰ってきた今日は、新しい航空大学が設立されて三周年の日に当たります。これはまさに『双喜臨門』(重ね重ねめでたいこと)です」と挨拶した。

宴席には、当時、日本の友人たちが食べていた料理が特別に用意された。鶏とキノコの煮込み、豚肉とハルサメの煮込み、粟粥、生キュウリと味噌……。これを見て、日本人たちは、中国の友人たちとともに過ごした忘れがたい日々を思い起こすのだった。

当時の生活は大変苦しかった。しかし日本人は、中国の人々より良い食物を食べ、すべての面で至れり尽くせりの特別な配慮を受けていた。こうしたことで日本人は、口には言えないほどの温かさを感じた。

代表団の伊東孝二郎団長ら日本側は、航空大学の指導者とともに、当時の隊長の林弥一郎少佐を偲んだ。林隊長は日本軍の教官だったが、後に部下を率いて新中国のために、中国人パイロットを一組、また一組と養成し、特別に貢献した。もし彼が今日、昔の航空学校がこれほど発展した姿を見ることができたら、どんなに喜んだことだろうか、と人々は語り合った。

父や母の墓に詣でる

代表団の一行は、長春から汽車で牡丹江へ向かった。列車が牡丹江に近い東京城駅を通過したとき、副団長の入角和男さんの胸中は複雑な思いでいっぱいになった。

日本が降伏したとき、入角さんと上の姉の敏子さん、下の姉の智恵さんの生活はきわめて苦しかった。誰も助けてくれず困っていたとき、東京城で収容されたのだった。後に三人は牡丹江の航空学校へ送られた。そのとき入角さんは十三歳だった。

彼は学校の雑役係になり、二人の姉は学校の保母になった。しかし敏子さんは牡丹江で病気のため死んでしまった。このときのことを思い起こして入角さんは「中国人が私たちを助けてくれた。それを終生忘れない」と言った。智恵さんは結婚し、今は中川姓となっているが、今回の旅行に参加した。

団員として参加した山本真代さんは、航空学校で主任飛行教官をしていた今は亡き糸川正弘さんの娘である。父がかつて仕事をした場所であり、母が永眠している場所でもある牡丹江をこの目で見てみたいと、ずっと思ってきた。


①代表団の団長が、航空大学に記念品を贈った②代表団メンバーの山本真代さんは、航空大学の校史陳列室で、父親が中国の空軍のためにパイロットを養成していた当時の写真を自分の目で見て、ますます誇らしく思った③かつて日本人とともに戦った中国の戦友たちは、日本の「老戦士」の「里帰り代表団」が中国にやってきたと知ると、中国各地から、代表団のホテルに続々とやってきた

①代表団の団長が、航空大学に記念品を贈った②代表団メンバーの山本真代さんは、航空大学の校史陳列室で、父親が中国の空軍のためにパイロットを養成していた当時の写真を自分の目で見て、ますます誇らしく思った③かつて日本人とともに戦った中国の戦友たちは、日本の「老戦士」の「里帰り代表団」が中国にやってきたと知ると、中国各地から、代表団のホテルに続々とやってきた

真代さんの母の西村節子さんは航空学校で糸川さんと結婚し、一九五〇年に真代さんを産んだが、一九五二年、牡丹江で病没した。真代さんはその後、日本に連れて帰られ、母方の祖父母に養われた。父は帰国後、真代さんが結婚するときに、一冊のノートを彼女に渡した。それには父が航空学校でしていた仕事のことや節子さんと恋愛結婚したこと、真代さんの身の上などが細かく書かれていた。真代さんはこれを大事にしまっていたが、今回、母の墓参りのために、とくにこのノートを持ってきた。

六月十一日、牡丹江に着いたその日の午後、代表団は、革命につくした烈士を祀る霊園の中にある日本の友人の墓地に詣でた。花崗岩の墓碑には三十三人の、かつて牡丹江の航空学校で働いた日本人の名前が刻まれている。その中には、入角さんの姉の敏子さんや真代さんの母の節子さんの名もあった。

墓碑の前に花輪や供物、線香が供えられた。入角さん、智恵さん、真代さんは涙を浮かべ、姉や母のために手を合わせた。代表団員や付き添いの人々も厳粛な雰囲気の中で、英霊に礼拝した。日本の友人たちは墓碑の傍らに一本の松を記念植樹した。

その夜開かれた牡丹江市政府の宴会では、朱副市長が「ここにも航空学校の子孫がいます」と市外事弁公室の尚紅傑科長を紹介した。尚さんの父はかつて航空学校の第二期の教官をつとめたが、すでにこの世を去っている。彼女は杯を持って「皆様にお会いでき、父と同じような身内に会ったような気がします」と挨拶した。

代表団の砂原恵秘書長が山本真代さんを招き、尚さんと真代さんはしっかりと抱き合った。真代さんは「私はまた妹に会いに来るわ」と言えば、尚さんは「お姉さんが来られないときは、私が代わってお母さんの墓に詣でます」と言った。真代さんは感動し、涙を流し、その場にいた人々も目頭を抑えた。

友好の気持ちは末永く

北京から長春、牡丹江、さらに大連と「里帰り」の長い道中だったが、一行は少しも疲れた様子もなく、愉快に談笑しながら航空学校の忘れがたい歳月を思い起こし、多くの感動的な物語を披露しあった。

副団長の山本米子さんは七十八歳の高齢ながら、非常に元気で、明朗、闊達だった。米子さんは帰国後、ずっと積極的に日中友好運動に参加し、いまも遼寧省本渓市の五人の児童に学費の援助をしている。当時、米子さんといっしょに航空学校で働いていた日本の娘さんたちは、すでに中国の大地に永眠している人もいれば、中国で暮らして八十歳近くなっている人もいる。

団員の贊岐文夫さんは、もとは航空学校の機械工場で働き、一九五八年に帰国した。彼の妻の郁代さんは、もとは人民解放軍第四野戦軍の看護士だった。彼女はこの世を去ったが、遺言により、彼女の遺骨の三分の一を北京に埋葬した。贊岐さんは現在、居を北京に定め、将来は妻とともに北京に骨を埋めるつもりだ。

もとは航空学校の修理工場の計器組の組長だった深谷岩光さんは、自分がすでに年をとり、また中国に来られるかどうか分からないと思い、今回はとくに娘の太田文子さんを連れて来た。「以前は、父が中国でしていたことをよく知りませんでしたが、今回の訪問を通じて深く理解することができました。今後は子どもたちが友好事業を継承するよう教育していきたい」と文子さんは言った。


④日本の「老戦士」の「里帰り代表団」の一行は、航空大学の「我々が飛んだ飛行機」の展示棚のそばで、当時、自分たちが整備した飛行機の模型を見ながら、話は尽きなかった

④日本の「老戦士」の「里帰り代表団」の一行は、航空大学の「我々が飛んだ飛行機」の展示棚のそばで、当時、自分たちが整備した飛行機の模型を見ながら、話は尽きなかった

広がる友情の輪

代表団には医師や看護士、記者が随行していた。こうした人々の協力で「里帰り」は無事に、順調に終わった。

日本の古い友人たちはこの訪問の中で、中国人民が古い友人を忘れず、誠心誠意、中日友好の気持ちと願いをしっかり持ち続けていること直接感じ、中国に対する友好の気持ちをさらに深めたのだった。また、彼らの中国に対する深い友好の気持ちに、中国側の人たちも感動した。

訪問最後の日の六月十四日の夜、大連賓館の宴会ホールは、歓声と笑い声に沸いていた。歌声が次々に起こり、日本の友人たちは中国·東北の踊り「大秧歌」を、体をゆすって踊り出した。かつて航空学校でもこのようにして祭日を祝ったものだ。みんないっしょに歌い、踊り、友情の輪が広がった。

空港で別れを告げるとき、みな握手し、抱き合い、熱い涙を流した。日本の友人たちを乗せた旅客機が青空に向かって飛んでいくのを眺めながら、中国の人々は、日本の古い友人たちの健康を願い、中日友好が永久に続くよう願わずにはいられなかった。

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