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中軸線に沿い再生する北京

Year:2007 Issue:12

Column: 特集

Author: 王浩 沈暁寧 高原=文 魯忠民 馮進 楊振生=写真

Release Date:2007-12-05

Page: 10-29

Full Text:  


写真·葉用才

写真·葉用才

元の初代皇帝·フビライが北京に都を構えて以来、北京は帝都として「中軸線」の概念をもとに都市づくりを進めてきた。
「中軸線」とは、「礼治」思想を体現するもので、「天子は中心にあり、北を背にして南を向く」という考えからなる。紫禁城(故宮)を中心にして、重要建築物を南北に一直線上に配するというこの構造は、皇帝の権力は絶対であることを示す。中国人特有の建築美だともいえるだろう。
南起点の永定門から、正陽門(前門)、天安門、紫禁城、景山、北終点の鼓楼·鐘楼まで、明代に形成された「中軸線」は、長きにわたって北京の「脊柱」であり続けた。そしていま、この「中軸線」がさらに北へ延長され、新しい都市景観が次々と現れている。



●左の写真は下から、再建された永定門、故宮、鼓楼、建設中のオリンピック公園。

●左の写真は下から、再建された永定門、故宮、鼓楼、建設中のオリンピック公園。


●北京は2008年のオリンピックを迎えるにあたり、数年前から大規模な再開発を実施。「中軸線」線上には新しい都市景観が現れている。

●北京は2008年のオリンピックを迎えるにあたり、数年前から大規模な再開発を実施。「中軸線」線上には新しい都市景観が現れている。


●永定門は再建され、前門までの道も整備された。前門周辺は昔を再現しようと目下、工事中。天安門広場の西側にはモダンなデザインの国家大劇院が完成した。鼓楼周辺は新旧交わる地として注目を浴びる。

●永定門は再建され、前門までの道も整備された。前門周辺は昔を再現しようと目下、工事中。天安門広場の西側にはモダンなデザインの国家大劇院が完成した。鼓楼周辺は新旧交わる地として注目を浴びる。


●そして、北の延長線上には、オリンピック公園が建設され、人々の訪れを今か今かと待ち受ける。

●そして、北の延長線上には、オリンピック公園が建設され、人々の訪れを今か今かと待ち受ける。


先農壇内にある北京の中軸線を示した砂模型。永定門から前門を経て故宮に達し、そこからさらに北へ延びている様子がよくわかる

先農壇内にある北京の中軸線を示した砂模型。永定門から前門を経て故宮に達し、そこからさらに北へ延びている様子がよくわかる

永定門 Yong Ding Men
古の姿がよみがえる

中軸線の起点となる永定門は、500年の長きにわたって北京城を守ってきた。しかし新中国成立後の1957年、都市交通の発展の妨げになるとみなされて取り壊された。その後、永定門を再建し中軸線を維持しようという声は絶えず、ついに2004年、永定門はよみがえった。



永定門はかつて、北京城に入るための重要なゲートのひとつだった

永定門はかつて、北京城に入るための重要なゲートのひとつだった


①永定門の「御道」は、もともと使われていた石を利用して昔の姿を再現した

①永定門の「御道」は、もともと使われていた石を利用して昔の姿を再現した


②昔の写真に見る永定門

②昔の写真に見る永定門


③再建された永定門の城楼

③再建された永定門の城楼

紆余曲折を経て

再建された永定門の下に立つと、灰色の城壁と赤色の城楼(城門の上に築かれたやぐら)が目にまぶしい。新しい永定門は、形、材料、作り方すべてが、昔の永定門とまったく変わらない。城楼に登って北の方を眺めると、正陽門がかすかに見える。永定門の北側には大きな広場と緑地が広がり、市民の憩いの場となっている。

永定門はかつて、外城の南城壁の中央にあり、七つある外城の城門のうち、もっとも威厳ある重要な建築物だった。

一九五三年、成立して間もない新中国は、これまで棚上げにされてきた事業に手を付け始めた。専門家たちは北京をどのように発展させるかについて、さまざまな策を提言した。

清華大学建築学部の梁思成教授と陳占祥教授は、古都である北京はその姿を留めるべきだと主張し、旧城の西側に新しい街を建設し、住民をそちらに移してはどうかと提案した。別の一派は、北京は、旧城のもとからある施設を基本とし、それに手を加えて発展させていくべきだと主張した。

これに対して施政者たちは、当時の経済的条件の制約と旧ソ連の専門家たちが主張した「都市発展は一つの中心による」「消費型都市から生産型都市への転換」などの指導思想により、最終的には後者を選んだ。

ここから、北京は大規模な都市改造を開始。当時、城壁は都市交通の発展を妨げる大きな障害であるとみなされ、取り壊されることになった。一九五〇年代初頭から城壁と城楼は次々と取り壊され、一九五七年には、永定門が壊された。永定門の前にあった堀は北に移され、そこには広い道路が建設された。こうして、永定門は城壁も城楼もなくなり、地名として残るのみとなった。


新しく整備された永定門から北へ延びる道路上で凧揚げを楽しむ子ども

新しく整備された永定門から北へ延びる道路上で凧揚げを楽しむ子ども


①永定門の城楼から北を眺めると、正陽門の箭楼が見える

①永定門の城楼から北を眺めると、正陽門の箭楼が見える


②天橋広場にある彫塑。天橋の8人の芸人「八大怪」のひとつ「頂碗(積み重ねた碗を頭にのせて演じる曲芸)の程傻子」

②天橋広場にある彫塑。天橋の8人の芸人「八大怪」のひとつ「頂碗(積み重ねた碗を頭にのせて演じる曲芸)の程傻子」


③新しく建設された天橋広場。奥に見えるのは清末に天橋にあった洋式の時計台を模造したもの

③新しく建設された天橋広場。奥に見えるのは清末に天橋にあった洋式の時計台を模造したもの


④古建築家の羅哲文さん

④古建築家の羅哲文さん

改革·開放により経済が急速に発展したため、一九八〇年代以降、一部の専門家は永定門の再建を叫び始めた。彼らは、旧城の中軸線は都市の魂であると考えたのだ。永定門がなければ、中軸線は南の起点を欠き、完全なものにはならない。

二〇〇一年、北京はオリンピック招致を成功させ、都市建設のスピードを速めた。「人文五輪」の理念のもと、旧城の風貌をよみがえらせるために、〇二年から中軸線の南部の整備を始めた。そこには、永定門の再建も含まれていた。

〇三年、新しい永定門の建設が始まり、一年余り後、竣工して一般開放された。

もとの姿を再現

「現在の永定門は再建されたものですが、国家級の文化財であることは変わりません。新しい永定門は明の城門の姿を完全に再現し、当時の人々の知恵や建築理念を反映しています」と語るのは、八十歳を超える著名な古建築専門家の羅哲文さん。

羅さんはこれまで、文化財の保護作業に携わるなかで、大量の古建築物を測量·調査し、それらの保護に関する意見を数多く提出してきた。永定門の取り壊しと再建も身近で体験した。取り壊しが決まったと聞いたときはまだ二十代。あわてて自転車に乗って現場へ駆けつけ、ペンとカメラで永定門の様子を記録したと話す。

「当時、中国は経済力がなかったため、文化財の保護に多大な費用をかけられなかった。永定門が壊されると聞いたとき、とても残念に思いました。せめてもの記念にと思い、何度も城楼や城壁に登りましたよ」。羅さんが残した写真や記録は、昔の永定門を語る貴重な資料となっている。


正陽門の城楼の上にある中軸線の羅針盤。「北緯三十九度五十四分、東経百十六度二十六分、永定門まで三千百メートル、天安門まで九百八メートル……」と記されている

正陽門の城楼の上にある中軸線の羅針盤。「北緯三十九度五十四分、東経百十六度二十六分、永定門まで三千百メートル、天安門まで九百八メートル……」と記されている

羅さんはまた、永定門の再建に直接関わった。「私たちはまず、もとあった場所に永定門を再建しようと決めました。しかし実際に地盤を測量してみると、城楼の地盤だけがしっかりとしていて、甕城(城門の外を取り囲む半円形の小城郭)や箭楼(矢を放つ砦)があった場所は、移動させた堀に埋もれ、再建することは無理だとわかりました」


⑤現在、前門大街は再開発のため封鎖されているが、工事現場を隔てる遮断壁には未来の様子が描かれている

⑤現在、前門大街は再開発のため封鎖されているが、工事現場を隔てる遮断壁には未来の様子が描かれている

当時、永定門全体をもとあった場所に再建するのは技術的に難しいから、場所を変えたほうがよいという人もいた。しかし専門家たちは文化財の真実性を保証するために、もとあった場所に再建することを固持した。そのため、城楼だけが再建されることになった。

再建の過程では、永定門の本来の姿を再現するため、材料や作り方に非常にこだわった。

昔の永定門を築いていたレンガは、取り壊された際、北京三台山危険品倉庫に運ばれ、そこの囲いに使われていた。そこで、永定門の再建が決まると、このレンガをもう一度もとに戻し、永定門の城楼を築いた。

〇四年九月、新しい永定門が完成したとき、専門家たちから拍手喝さいが沸き起こった。北京の中軸線の起点がついによみがえったのだ。

羅さんは、「永定門の瓮城と箭楼を再建することができなかったのは残念ですが、城楼を昔のままに再現することができ、たいへんうれしく思います」と話す。

歴史の保護と再開発

再建された永定門の一帯は、北京城南部の特色ある景観となった。永定門の北側の前門大街と天橋の再開発もすでに始まっている。北京城の中軸線は、新しい姿でオリンピックを迎えようとしているのだ。

しかし都市の再開発については、「北京は歴史文化の名城であるため、大規模な移転や改造は都市本来の風貌を壊す」と考える人も少なくない。これに対して羅さんは次のように語る。「北京は中国の政治と経済の中心であり、人口も多い。都市の発展は、もともとの風貌を守ることも大切ですが、住民の生活要求を満たす必要もあります。このため北京は、莫大な資金と労働力を投入して、都市の風貌の保護に力を入れています」

数年前、北京は市全体を調査して、市街区内に二十五の歴史文物保護区を定めた。これにより、胡同(フートン)(横町)など北京情緒が色濃く残る建築物を保護している。また、非保護区の再開発についても、指導や管理を行っている。

社会が進歩するにつれ、中国人の文化財保護に対する意識が高まり、北京の都市風貌の保護も進んでいる。永定門の再建は、そのひとつの証拠であるともいえるだろう。

故宮周辺 Gu Gong
激動の歴史を記憶する

中軸線は北京の「脊柱」だ。とくに故宮周辺は、15世紀以降の激しく変化した中国の歴史をすべて記憶しているため、物語に欠かない。そして今年、天安門広場の西側に中国の新時代を代表する「国家大劇院」が完成した。新しい物語もまた、ここから生まれる。



晴れ渡った空の下、きらきらと輝く故宮の瑠璃瓦は、昔日の紫禁城の威厳を示し、北京城の歴史の変遷を物語っている(写真·劉世昭)

晴れ渡った空の下、きらきらと輝く故宮の瑠璃瓦は、昔日の紫禁城の威厳を示し、北京城の歴史の変遷を物語っている(写真·劉世昭)


①現在の天安門広場は、東側は歴史、西側は政治を突出させた建築構造をベースとして、中国人民が歴史を創造し、政権を握った新中国を体現している(写真·葉用才)

①現在の天安門広場は、東側は歴史、西側は政治を突出させた建築構造をベースとして、中国人民が歴史を創造し、政権を握った新中国を体現している(写真·葉用才)

「竜脈」が完成

一四二一年、明の永楽帝·朱棣は都を南京から北京に移した。そして、中軸線上に南から北へ向かって、永遠に安泰であることを意味する「永定門」、天を祭り祈祷する「天壇」、天宮の部屋数より一つ少ない部屋が設けられた「紫禁城」、明の朱氏皇室を守る「景山」を建設した。

こうして、北京の中軸線は明朝(一三六八~一六四四年)の永遠を示す「竜脈」として形成された。しかし二百年後、明朝最後の皇帝·崇禎帝は景山で命を絶ち、明朝の運命はこの「竜脈」上で終結する。

多元的な文化が花開く

明朝が滅亡して間もなく、清の軍隊が山海関を経て北京に入った。この満州族の政権は北京で「満漢分治」(満州族と漢族を分けて統治する)を行い、漢族の一般庶民をすべて城南へ移住させた。これにより、北京城は東城に金持ちが多く、西城に役人が多く、中央に宮殿があり、南城に庶民がいるという構造になった。


②大柵欄では、北京の伝統的な文化を体験し、特色ある商品を購入できる(写真·沈暁寧)

②大柵欄では、北京の伝統的な文化を体験し、特色ある商品を購入できる(写真·沈暁寧)


③20世紀初頭の前門商業区の様子。この写真のように、古い街並みと路面電車を復活させるため、現在、再開発を進めている

③20世紀初頭の前門商業区の様子。この写真のように、古い街並みと路面電車を復活させるため、現在、再開発を進めている

また、中国全土から毎年、科挙を受けるために北京にやって来る受験生や各地を遍歴する商人たちは、北京の庶民たちと交ざって南城に住んだ。彼らによって各地の宗教、民俗、建築、文芸、飲食が北京にもたらされ、南城には多元的な「城南文化」が生まれた。

北京っ子はこの「城南文化」の薫陶を受け、貴族の豪華さと豪快さ、庶民の小粋さと温和さ、文人の孤高さと礼儀よさ、武人の強靭さと義理堅さ、さらには、北方人のさっぱりとして義侠心に富んだ性格、南方人の繊細で含蓄がある性格をすべて備えるようになった。そしてこれが、北京情緒となった。

北京情緒を味わうには、もっとも賑やかであった繁華街·「前門(チエンメン)」と「大柵欄(ダアシーラア)」一帯に足を運ぶといい。ちなみに、「ダアシーラア」は北京っ子独特の発音で、共通語では「ダージャーラン」。

「大柵欄」という名前が付けられたのには、次のような歴史的要因がある。

明代、「廊房四条」と呼ばれていたこの地域には商工業が集められ、宮殿区と庶民生活区を隔てていた。その後、清朝の「満漢分治」に漢族は不満を募らせていたため、康煕帝は宮殿区の治安を守ろうと、胡同や路地の入口に木製の柵門を設置し、決められた時間だけ開け閉めするようにした。大きな店舗が集中していた「廊房四条」には、とりわけ高くて大きい柵門を設けた。そこで、知らず知らずのうちに、庶民はここを「大柵欄」と呼ぶようになった。

当時、大柵欄の路上は人々でごった返し、小商人たちはさまざまな呼び声で客の注意を引き、その様はまるで歌の競技会のようにひっきりなしだったという。また、芝居小屋から湧き上がる喝采に、道行く人々は足を止めずにはいられなかった。


①国慶節の期間、天安門広場には花壇によって各種各様の景観が作られ、祝いのムードを盛り上げる(写真·沈暁寧)

①国慶節の期間、天安門広場には花壇によって各種各様の景観が作られ、祝いのムードを盛り上げる(写真·沈暁寧)

道の両側には、飲食店や茶館がずらりと並び、文人たちはここで議論したり、詩や絵を創作したりした。また、高官や身分の高い人たちはここで宴席を催し、大金を惜しげもなく使った。商人たちはこういった雰囲気の中で、思う存分金を儲けた。

今この地域は、一九二〇、三〇年代の景観を再現しようと大規模な改修工事が行われている。来年には完工する予定で、そのときには、青白石を敷き詰めた幅二十一メートル、全長八百四十五メートルの新しい前門大街が姿を現し、「当当車」(チンチン電車)が五十年ぶりに路上によみがえる。

「当当車」とは、一九二四年に北京が外国から導入した路面電車。車両は木製で、先頭と後尾に運転席が設けられており、「チンチンチン」と鐘を鳴らしながら走っていた。そのため、庶民たちはこの電車のことを「当当車」と呼んでいた。

封建社会の終結

十九世紀中ごろ、旧習にしばられ、世界から立ち遅れた清朝は、欧米列強の圧力に屈して、主権を失い国を辱める不平等条約を結んだ。これにより、国土を失い、人々の生活も困窮した。しかしこれと同時に資本主義の民主的思想も入ってきたため、有識者たちは清朝政府の無能さと封建制度の堕落に気がついた。

一九一一年十月十日、武漢で清朝政府を倒す第一砲が放たれた。そしてすぐに、中国全土で十一の省が独立を宣言した。

一九一二年元旦、革命党人は中華民国を樹立。北京に進軍し、清朝政府を討伐した。当時、清朝の皇帝はわずか五歳の溥儀。まだ世の中のこともわからない幼い皇帝は驚き怯えながら退位を宣言し、清朝は終末を迎えた。

皇帝の前庭から人民の広場に

北京の中心に位置する天安門広場は、明·清代には東、西、南の三面が城壁に囲まれる「T」字型の大きな庭だった。

皇帝たちは重大な決定事項を発表する際、天安門の城楼に登り、聖旨を読み上げた。役人たちは下の広場でひざまずきながらこれを拝聴した。つまり、天安門広場は紫禁城の前庭であり、皇居の威厳や神秘性を引き立てる役目を担っていたのだ。


②1984年10月1日、天安門広場で開催された新中国建国35周年を祝う盛大な行進。北京大学の大学生たちは天安門の城楼の上にいる鄧小平に向かって「小平您好(小平さん、こんにちは)」と書かれた横断幕を掲げた。これは、鄧小平を中核とする党中央が実施した改革·開放政策を一般市民が歓迎していることの表れといえる。改革·開放後、北京は近代都市として急速に発展する

②1984年10月1日、天安門広場で開催された新中国建国35周年を祝う盛大な行進。北京大学の大学生たちは天安門の城楼の上にいる鄧小平に向かって「小平您好(小平さん、こんにちは)」と書かれた横断幕を掲げた。これは、鄧小平を中核とする党中央が実施した改革·開放政策を一般市民が歓迎していることの表れといえる。改革·開放後、北京は近代都市として急速に発展する

一九四九年十月一日、毛沢東主席は天安門の城楼に登り、中華人民共和国の成立を厳かに宣言した。これは、新中国の誕生と人民政権の樹立を意味する。これにともない、天安門広場の役割と規模も変化し始めた。

一九五〇年代、梁思成や張開済、沈勃など中国建築学界のエリートたちの設計により、天安門広場の城壁と一部の門楼(門の上に建てた屋根のある建物)は取り壊され、広場は百万人以上を収容できる広さに拡張された。

天安門の西側の社稷壇(皇帝が、国に自然災害がないことと五穀豊穣、そして朝廷の安定を祈った祭壇)は、人々が憩う中山公園に変わり、東側の太廟(皇帝の祖先を祭る御霊屋(みたまや))は、労働人民文化宮に変わった。

そして五〇年代末、人民大会堂と中国歴史博物館·中国革命博物館(二〇〇三年に中国国家博物館と改名)が広場の西側と東側に相次いで完成。この二つの建物は、中国の伝統的な建築構造に準じたうえ、西洋建築の風格も取り入れられた。これに広場の中心にそびえる高さ三十八メートルの人民英雄記念碑が加わり、天安門広場は中国人民が歴史を創造し、政権を握った時代を鮮明に体現している。しかしこれにより、紫禁城は貴重な宝物や伝奇·物語を詰め込んだ裏庭のようになり、天安門広場の飾りとなってしまった。

天安門広場はこのときから、中国人の心の拠り所となり、世界が注目する中国の焦点となったのだ。


①人民大会堂の西側にオープンしたばかりの国家大劇院。丸い外観ときらきらと透明に輝く照明効果により、まるで水面に浮かび出た真珠のよう。天安門エリアにロマンティックでアーティスティックなムードを添えた

①人民大会堂の西側にオープンしたばかりの国家大劇院。丸い外観ときらきらと透明に輝く照明効果により、まるで水面に浮かび出た真珠のよう。天安門エリアにロマンティックでアーティスティックなムードを添えた


②国家大劇院は主にオペラハウス、音楽ホール、劇場からなる。中国の文化の中心である北京を象徴する建築のひとつだ

②国家大劇院は主にオペラハウス、音楽ホール、劇場からなる。中国の文化の中心である北京を象徴する建築のひとつだ

新しいシンボル「国家大劇院」

九月二十五日(中秋節)の夜、七年近くの歳月をかけ、三億ドル以上の資金を投入して建設した「国家大劇院」が、その神秘的な姿を人々の前に現した。中国の伝統的なバレエ劇『紅色娘子軍』が二千人余りの観客の前で上演されたが、来場者の目的は、観劇よりも新しい劇場を一目見ることにあった。


北海公園の瓊島から望んだ国歌大劇院。歴史情緒あふれる古代建築と政治的色彩が強い近代建築のなかで、モダンなデザインの国家大劇院は、未来の北京の建築スタイルを示唆しているのかもしれない

北海公園の瓊島から望んだ国歌大劇院。歴史情緒あふれる古代建築と政治的色彩が強い近代建築のなかで、モダンなデザインの国家大劇院は、未来の北京の建築スタイルを示唆しているのかもしれない

国家大劇院は人民大会堂の西側に位置し、天安門広場に隣接している。設計を手掛けたのはフランス人建築家ポール·アンドリュー。半楕円球、半透明の建物は、周囲を水と緑に囲まれ、まるで水面に浮かぶ一粒の巨大な真珠のよう。建築面積は十六万五千平方メートル、五千五百人の観客を収容できる。

特筆すべきは、周りを水で囲まれている劇場に入るのに、水の下に設けられた通路を利用することだろう。その後、空中回廊を通ってそれぞれの上演場所へ移る。途中、中国文化の特色ある展示も目にすることができる。

英紙『フィナンシャル·タイムズ』は、この国家大劇院を、中国の経済繁栄の産物、文化を追求した上の覚醒、西洋のトップレベルの建築物に匹敵する美しさと評価した。

国家大劇院の完成後、四角四面で整いすぎた感のある天安門広場に、柔らかな弧線の躍動感あふれる動きが加わった。まじめで荘厳な中国の政治の中心にロマンティックなムードが注入されたのだ。これは、中軸線を北に延長したオリンピック公園内に建設されているモダンな競技施設とともに、新世紀における北京の発展の趨勢を示している。

鼓楼·鐘楼周辺 Gu Lou·Zhong Lou
昔も今も文化の発信地


鼓楼東大街にはさまざまな老舗や小物店が集まる

鼓楼東大街にはさまざまな老舗や小物店が集まる

中軸線に沿って北へ向かい、地安門大街を抜けると、かつての中軸線の北終点「鼓楼·鐘楼」に到着する。鼓楼·鐘楼の西南は「什刹海(シーチャーハイ)」、東南は「南鑼鼓巷(ナンルオグーシアン)」。ここは昔、高官や貴族が集まって暮らす地域だったが、今では若者に人気のオシャレスポットとなっている。


朝は鐘、夕べは太鼓

鼓楼·鐘楼はこれまでずっと、古い北京のシンボルとみなされてきた。東単と西四と鼓楼は、もっともにぎやかな市街だったので、庶民の間では「東単西四鼓楼前」と言われていた。

清代、高官や身分の高い人が邸宅を構えて暮らした什刹海沿岸はさらに栄え、飲食店や茶館、金融機関が次々とできた。露天商や民間芸人も集まり、遊覧客も多く、民俗的な色合いが濃い場所だった。今日でも、昔ながらの北京というと、多くの人が鼓楼·鐘楼を想う。


①鐘楼の下で朝の体操をする市民たち

①鐘楼の下で朝の体操をする市民たち

鼓楼と鐘楼はまるで二人の武士のように北京城の正北を守っていた。その任務は時を知らせることで、「朝は鐘を鳴らし、夕べは太鼓を叩く」といわれていた。

昔は、朝七時からは鐘を鳴らして時を知らせた。そのため、昼間時刻を尋ねるときは「幾点鐘?」。夜七時からは太鼓を叩いて時を知らせたため、夜は「幾更鼓?」と聞く。

鐘楼には高さ五·五メートル、直径三·四メートル、重さ六十三トンの銅製の鐘があった。その鐘の音は丸みがあってよく響き、周囲数十キロまで届いたという。

鼓楼には太鼓が二十五台あり、最大の太鼓は「年鼓」と呼ばれていた。残りの二十四台はそれぞれ中国の二十四節気を表していた。しかし、これらの太鼓はもう存在しない。今ある二十五台の太鼓は、清代の嘉慶年間の太鼓の寸法に照らし合わせて、二〇〇一年に新しく作ったものだ。毎日二回、太鼓を叩くパフォーマンスが行われるが、時を知らせる役目はとうの昔になくなった。

数多く残る大邸宅

北京はかつて「東富西貴」といわれ、東側には金持ちが多く住み、西側には役人が多く住んでいた。什刹海と南鑼鼓巷はこの東西の境にあるため、貴族や金持ちの大邸宅が数多く残っている。

新中国の成立後、これらの四合院(中庭を四棟の建物で囲む伝統的な住宅)はもともとの建築構造のまま、比較的良く保存されてきた。とくに、南鑼鼓巷一帯は昔ながらの北京がもっとも完全な状態で保存されていて、四合院がもっとも集中する地域だ。


②景山から望んだ鼓楼。中軸線上にあることがよくわかる

②景山から望んだ鼓楼。中軸線上にあることがよくわかる


③胡同観光は北京らしさを体感できると大人気だ

③胡同観光は北京らしさを体感できると大人気だ


④恭王府の西洋式の正門(写真·邢剛)

④恭王府の西洋式の正門(写真·邢剛)

今も残る王府(皇族の邸宅)や庭園のうち、一般開放しているのは、前海西街にある「恭王府」だけ。恭王府はもともと、乾隆帝の寵愛を受けた臣下·和珅が建てた邸宅だった。和珅の死後、二つに分けられ、慶親王と和孝公主のものになる。その後、道光帝の第六子の恭親王·奕訢のものになり、「恭王府」と名を変えた。何度も主人が変わったのは、当時の政治情勢の変化と深く関係している。そのため、「清代の歴史の半分は恭王府にある」といわれる。

恭王府は西洋建築と中国江南の園林、北方の建築様式が一体となっている。北京で保存状態がもっとも良く、等級がもっとも高い清代の王府だ。

恭王府の等級が高いことは、門の前にそびえ立っている石の獅子を見ればわかる。邸宅の門の前に石の獅子を置くのは、主人が五品以上(品は中国古代の官位の等級。一品が最高で九品まである)の役人である証拠で、官位が高いほど獅子の頭の巻き毛の列が多くなる。一般の親王の邸宅は十二列、紫禁城は十三列。ところが、恭王府の獅子は十三列で、皇帝と変わらないくらいの力を持つことを示している。

什刹海と南鑼鼓巷の一帯では、恭王府のほかにも数多くの昔日の王府や庭園を見ることができる。一部は名高い人物の旧居に姿を変えている。宋慶齢の旧居はもともと醇親王府の西庭園、郭沫若の旧居は和珅の庭園、梅蘭芳の旧居は慶親王府の馬屋だった。


①什刹海

①什刹海

また一部は、国家機関になっている。摂政王府はまず衛生部となり、二〇〇一年以降は国家宗教事務管理局となった。

このほか、多くの王府や庭園は改築されて、役所に勤める職員の宿舎になっている。南鑼鼓巷の辺りは特に多い。

南鑼鼓巷が一般の観光客にはまだあまり知られていなかった数年前は、敷地の中に入り、参観したり写真を撮ったりすることができた。しかし今は観光客が多くなってしまったため、住民たちは門の前に「一般開放はしていません。参観はお断りします」との札を掲げている。そこで、門の外から軒先に施されている美しいレンガ彫りを眺め、ため息をつくしかない。

若者も年寄りも

二〇〇三年から、什刹海周辺にはカフェやバー、雑貨店がたくさんでき始め、北京の新しいオシャレスポットとして注目を浴びるようになった。これに影響されて、その東側に位置する南鑼鼓巷もだんだんとにぎやかになり、特色のある小さなショップやレストランがオープンし、流行に目ざとい若者や外国人が集まるようになった。

イギリス人のドミニコさんは、南鑼鼓巷でオリジナルプリントのTシャツを売る店を出している。北京の地下鉄の駅名のプレートや広告、中華料理の定番「宮爆鶏丁」などといった文字がプリントされたTシャツは、奇抜で面白く、若者たちに人気だという。


②南鑼鼓巷で開かれた「創意市場」。若者たちは自分で作った物を持ってきて観光客に見せたり販売したりする

②南鑼鼓巷で開かれた「創意市場」。若者たちは自分で作った物を持ってきて観光客に見せたり販売したりする


③オリジナルプリントのTシャツ店

③オリジナルプリントのTシャツ店


④客足が途絶えない「文宇奶酪」

④客足が途絶えない「文宇奶酪」

若者たちが多く集まり、オシャレなカフェやバーが出来ているものの、昔からあった老舗の店も依然として存在する。自分の一貫した経営方法や生活リズムを維持し続けていて、その頑固さがかえって魅力となっている。

たとえば、牛乳で作ったやわらかいプリンのようなデザートを提供する「文宇奶酪」の店舗は、たったの十数平方メートルしかなく、造りや装飾も八〇年代のままだが、客足は依然として絶えず、道路まで列をなしている。どんなに客が多くても、店主は毎日午後二時にならないと店を開けない。しかも販売は毎日三百個限定。完売すると店を閉じ、決して無理はしない。まさに「老北京人」の性格だ。

また、この一帯ではしょっちゅう「創意市場(アイデア·マーケット)」が開かれる。外国人バンドがパフォーマンスを見せるだけでなく、韓国っぽいファッションに身をつつんだ若者が手作りのヘンテコな人形を売っていたり、「東城巧娘(東城の手先が器用なおばさん)」とプリントされたおそろいの服を着たおばさんたちが、自分たちで編んだ小物を売っていたり……。

その一方、近くに住むお年寄りたちが腰掛けを持って集まり、道端でおしゃべりや中国将棋に興じるという、昔ながらの光景も見られる。その道の向こう側にはイマドキのバーがあり、若者たちがビールを飲んだりバンドの演奏を聴いていたりする。これが、什刹海と南鑼鼓巷一帯の魅力なのかもしれない。

奥林匹克公園 AoLinPiKe GongYuan
延長線上の新たな景観

明代に形成された中軸線は鼓楼·鐘楼が終着点だが、いま、これを北に延ばした線上に新しい景観が建設されている。丘があり水があり、たくさんの巨大建築物もある北京奥林匹克(オリンピック)公園だ。緑豊かなこのエリアが、新しい北京のシンボルになることは間違いないだろう。



オリンピック公園の設計図

オリンピック公園の設計図


中軸線を北へ延長させたエリアにはオリンピック公園が建設されている

中軸線を北へ延長させたエリアにはオリンピック公園が建設されている

中軸線を北へ延長

北四環路の北辰橋から北へ向かうと、オリンピック公園の敷地内に入る。この公園は総面積千百三十五ヘクタールで、三つのエリアに分かれる。

南エリア(百十四ヘクタール)にはオリンピックの競技施設が集中する。国家体育場「鳥巣(ニアオチャオ)」や国家水泳センター「水立方(シュイリーファン)」、国家体育館などはみな、このエリアにある。

中央エリア(二百七十一ヘクタール)は公園の中心区で、オリンピック施設の一部と関連施設が建設される予定。そして北エリア(六百八十ヘクタール)はオリンピック森林公園だ。

「鳥巣」や「水立方」などの競技施設はすでにほぼ完成し、オリンピック公園の輪郭は出来上がっている。国内外の観客たちの訪れを待っている状態だ。

公園内には南北を貫く長さ二·三キロの歩道があり、南端は中軸線とつながっている。北は木々が茂る人工の丘。この構造はもともとの中軸線の考案になぞらえたものだ。

オリンピック公園はオリンピック開催の中心エリアとなるため、設計プランのコンペでは交通の便がよい、環境にやさしい、オリンピック後も利用可能などといった原則が設けられた。

なかでも一番重視されたのは、空間構造において、北京という都市の特色を体現し、中軸線の意義を強調すること。このため、オリンピック公園は設計当初から中軸線の延長線上に置かれた。

元代以来、北京城は中軸線を中心に建設され、明代には外城が建築され、七·八キロメートルの中軸線が定まった。そして今、オリンピック公園の建設計画にも中軸線の理念を導入。北京城の文化の新しい延長でもある。

延長線上に建物はない


オリンピック公園で、コンクリートを流し込む作業をする労働者

オリンピック公園で、コンクリートを流し込む作業をする労働者


オリンピック公園は延長線上の両側にバランスよく配置されている。

オリンピック公園は延長線上の両側にバランスよく配置されている。

オリンピック公園の設計プランは、十八の国の八十プランの中から選ばれた。中軸線の延長にある歩道の両側には、伝説に基づく古代の理想の皇帝·三皇五帝の時代から清の時代までの代表的な建築物を建造する予定だ。

オリンピック公園の設計プランを決める際、専門家たちの頭を悩ませたのは、公園の中軸線上にどのような建物を建てるかということだった。北京城の中軸線は、永定門、紫禁城、鼓楼·鐘楼など実体のある建物からなっている。

そこである設計士は、二つの塔が並んでいるような超高層ビルを建ててはどうかと提案し、一時は少なからぬ人が賛成した。しかし多くの専門家は、高層ビルは北京のもともとの風貌に反するとして反対した。最終的には、中軸線の延長線上には建物を建てないことに決定。そして、北端に人工の丘を造り、中軸線が最終的に自然につながるようにした。

この考えによって、中国古代の造園思想も中軸線の改築に導入され、巨大な人工の湖をオリンピック公園の東側の運河につなげ、公園内の水系を構成することになった。

この構造は、北京のもともとの中軸線とその西側にある什刹海の水系の構造と互いに引き立て合い、東洋文化に見られる自然と人間が調和して共存する理念を表している。

このほか、オリンピック公園にはたくさんの緑を植え、「グリーンオリンピック」の理念を表す計画だ。選手たちが選手村から会場に通う交通手段は、新型の環境保護バス。二〇〇八年のオリンピック開催の際には、緑あふれるオリンピック公園がお目見えすることだろう。


景山で命を絶った崇禎帝
明の末期、政治が腐敗し、天災が数年続いたため、各地で農民の武装蜂起が相次いだ。東北地方では、満州族の王朝「大清帝国」(1616~1911年)が虎視眈々と南下する機会をうかがっていた。明朝はまるで、嵐の中の朽ち木のように、今にも倒れそうだった。
1644年旧暦3月19日の夜、農民蜂起軍が北京に攻め入り、厳かで静かだった紫禁城はめちゃくちゃに乱れた。紫禁城を守っていた軍は壊滅。臣下たちは逃げて散り散りになり、皇后も自殺した。
明朝の復興を図りながらも、不運な時代に巡り合ってしまった崇禎帝は、失意のどん底に陥った。そして、「なぜ、皇帝の家に生まれたのか」というため息をもらしながら、景山のふもとのエンジュの木に首を吊って命を絶った。享年35歳だった。

ラストエンペラー·溥儀

清朝皇帝を退位した溥儀だったが、協議に基づいて引き続き紫禁城内で暮らすことを許され、民国政府から生活物資の供給を受けることとなった。

以前、役人たちが政治について議論していた太和殿はがらんとし、数人の宦官が皇帝の椅子や机の上の埃を払っているだけ。宮殿の前の広場には、ひざまずいて拝む百官の姿が見られなくなり、興味津々に自転車に乗る練習をする溥儀の姿があるのみとなった。
1917年7月、あきらめきれなかった清の臣下たちは、再び溥儀を擁立して帝制を復興しようとしたが、12日間で失敗に終わった。
1924年11月、革命軍は北京政変を起こして皇帝の称号を完全に廃止し、溥儀を紫禁城から追い出した。こうして、18歳の溥儀は普通の国民になった。
40年後、溥儀は新中国のもとで全国政治協商会議の委員に選ばれ、起伏に富んだ人生を記録した自伝『わが半生』を執筆した。今、彼が住んでいた紫禁城は一般開放され、故宮博物院となって多くの観光客を迎え入れている。

天安門前で国民が目覚め
1918年の冬、中国の参加する連合国がドイツを筆頭とする同盟国を打ち負かし、第一次世界大戦が終結。喜びに沸き立った中国人は、ドイツが占領していた山東省の復帰を待ち望んだが、1919年1月、英、仏、米、日などが主導権を握る「パリ講和会議」で、山東省は日本にわたることが決定し、当時の北洋軍閥政府はそれに妥協した。
このニュースが中国に広まると、国民は怒りに燃えた。帝国主義の不当な権益分配において、国力の劣る中国は、正当な権益を守ることができないことに気がついたのだ。
5月4日、北京の大学生3000人以上が天安門前に集まり、帝国主義の野蛮行為と北洋政府の売国態度に抗議する大規模なデモを行った。進歩的な人々は、市民の前で演説し、封建主義、帝国主義に対する徹底的な革命を行おうと呼びかけた。数日後、全国の20余りの都市では労働者や学生、商人がストライキを実施し、北京の呼びかけに応えた。これが、中国現代史に名高い「五四運動」である。
中国人はこれまでの80年間、封建社会の皇帝、兵力の強い軍閥、そして欧米列強にさえ頼って自国を救おうとした。しかし、これらの試みはすべて失敗に終わった。「五四運動」の勃発は、これらの失敗のあとの国民の覚醒なのだ。
その後、マルクス主義が中国に広まり、労農同盟を主とするプロレタリア階級が資産階級に取って代わり、民族の独立と民主政治を獲得する戦いの旗を掲げた。

傾いている中軸線
道理からすれば、永定門と鼓楼·鐘楼を結ぶ中軸線は、地球の経線と重ならなければならない。つまり、正南と正北を結んでいなければならないということになる。
しかし、航空測量によると、鼓楼·鐘楼はその経線から300メートルほど離れた位置にある。北京の中軸線は、永定門を出発するときから、西側に2度ほど傾いているのだ。
これまでずっと、帝都が正南正北の整然とした構造にあることを誇りに思ってきた北京っ子たちは、いきなり、北京の中軸線は傾いていると言われ、驚いている。
ではなぜ、傾いているのだろうか?
元代、中軸線の建設を担当したのは、当時の著名な科学者·劉秉忠と郭守敬。天文測量を採用した彼らが、このような低レベルなミスを犯すはずがない。
中国測量科学院の調査によると、中軸線が鼓楼·鐘楼を経て、さらに北へ延びていくと、内蒙古自治区のシリンゴルにある元の上都遺跡に達するという。ここから考えるに、中軸線が傾いているのは、元の初代皇帝·フビライの故意によるものである可能性が高い。

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