清朝初期の書風は、当初、明の董其昌、のちに元の趙孟頫(ちようもうふ)の影響が大きかった。当時、「館閣体」が優勢で王侯貴族や士大夫はもとより、小官吏や学生まで、その枠から脱する者はいなかった。康熙帝は董其昌を尊び、乾隆帝は趙孟頫を尊重したので、世の書風も皇帝の好みに支配されていたわけだが、やがてそれにも衰微の兆候が現われはじめた。ここにいたって唐の顔真卿の書体を専攻する銭南園が、異色の旗頭として急上...
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清朝初期の書風は、当初、明の董其昌、のちに元の趙孟頫(ちようもうふ)の影響が大きかった。当時、「館閣体」が優勢で王侯貴族や士大夫はもとより、小官吏や学生まで、その枠から脱する者はいなかった。康熙帝は董其昌を尊び、乾隆帝は趙孟頫を尊重したので、世の書風も皇帝の好みに支配されていたわけだが、やがてそれにも衰微の兆候が現われはじめた。ここにいたって唐の顔真卿の書体を専攻する銭南園が、異色の旗頭として急上...