一九五四年、上海魯迅記念館の館員が魯迅の遺品を整理していたさい、茶色の罫(けい)の入った原稿用紙の半分が雑誌のなかにはさまれてあるのをみつけた。その原稿用紙のうらには鉛筆で地名や曲線がしるされていた。長い年月を経て鉛筆の色はあせてはいるが、湖北、河南、安徽の三省が交わる境界地区の県や鎮の名がはっきりとみてとれた。筆跡から判断して、その字は魯迅のものでもなく、夫人の許広平女史のものでもない。それは魯...
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一九五四年、上海魯迅記念館の館員が魯迅の遺品を整理していたさい、茶色の罫(けい)の入った原稿用紙の半分が雑誌のなかにはさまれてあるのをみつけた。その原稿用紙のうらには鉛筆で地名や曲線がしるされていた。長い年月を経て鉛筆の色はあせてはいるが、湖北、河南、安徽の三省が交わる境界地区の県や鎮の名がはっきりとみてとれた。筆跡から判断して、その字は魯迅のものでもなく、夫人の許広平女史のものでもない。それは魯...