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Directory Of Year 1953, Issue 1
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紡績勞働者の樂園―靑島の修養所

Year:1953 Issue:1

Column: レポート

Author:

Release Date:1953-06-01

Page: 39,40

Full Text:  

湛山―こゝは靑島のなかでもとりわけすばらしいところだ湛山の丘の中腹にたつと、すぐ足もとにはてしない海がひらけ、はるか彼方には嶗山がそびえたつている。美しい市街も一望のもとにおさめられる。

だが、自然のほんとうの美しさは、人民がこの山河の主人公となつたときにはじめて現れてくるのだ。つい四年前、靑島のしずかな海面には、どうもうな姿をむきだしにして、外囯の軍艦がうかんでいた。美しい建物のなかには、帝囯主義者やこれとむすびついた囯民党の軍閥·官僚、大地主や官僚資本家たちが住んでいた。こうした時代に靑島の自然の美しさについて語ることができただろうか

いま、湛山一帶は働くもの、楽園となつている。解放後、中華全囯総工会の靑島休養所がここに設けられてからは、こゝは数多い全囯の休養地のなかでも、もつとも規模の大きな、すぐれた設備をもつ休養地のひとつとなつた。全囯総工会の休養所には全囯のいろんな都市から労働者がやつてくる。この三年間、北は大同、太原、石家荘、南は上海その他の都市の労働者―模範労働者や優秀労働者が多数休養にやつてきた。そして、休養にやつてくる労働者の数は年々ふえる一方である。こうして従来の施設だけではたりなくなつたので中囯紡績工会全囯委員会は、紡績労働者のためにここ靑島に新たな休養所をたてた

この新しい休養所は、一九五二年三月から建築工事をはじめ同年八月に完成した。休養所の中心は、おなじ形とおなじ大きさとおなじ設備をもつた三階建の二棟である。労働者たちは、この二つの建物をそれぞれ、「光栄の家」、「幸福の家」と名づけた。労働者階級が、毛澤東主席と人民政府の指導のもとに、自己の光栄にみちた労働によつて幸福な生活をつくりだしたのだという意味をあらわしたものである。

休養室は一棟に四十八室もうけられている。どの部屋にも暖房裝置と冷房裝置があり、スブリングのよく利いたベつドには厚い蒲団がしいてある。きれいにみがきあげた床に眞白い壁、そしてテーブルの上には立派な茶器がおいてある。休養所にはクラブ、図書室、医務室。洗面所浴場、バレーやバスケつト·ボールのコート、遊戯場、それに花園などもあつて休養者が存分たのしめるようになつている。

各地からこゝにやつてくる労働者たちは、みんな昔からの知り合いのようにうちとける。どこかの労働者が着くと、お互いにすぐ挨拶をかわし、生產の上であげた成果を語りあつてお互いに祝いあう。言葉が北と南とで通じにくくても、労働者たちにひじょうに親しいうちとけた気持によつて固く結ばれる。

休養所の毎日の楽しい生活は規則正しい時間表でしめすことができる。

休養者たちは起床するとまず花園に出てかるい体操なしたり散歩したりする。朝の七時半からは自由な読書時間で、たいてい図書室で新聞や本を読む。「中囯紡績労働者」という雜誌や「ソ同盟グラフ」などはとくに興味ぶかく読まれる。労働者たちは今日のソ同盟のなかに明日の中囯の姿を見出して、かゞやかしい希望にみたされる。八時半から十一時までは、講演をきくか、そうでなければ、グループで学習したり討論したりすることになつている。書飯の後は午睡をとる。午後二時からは、思い思いにすきなことをやつてすごす。海水浴や散歩に行くものもあれば、康楽球(王突きの一種)やらダイヤモンド·ゲームなどをして遊ぶものもある。夕食後はダンスをしたり、歌をうたつたりする。

休養所の食事は、牛乳、鶏、鴨、その他獣肉も魚肉も豐富で、休養者たちに十分な栄養を提供している。

こうした生活を昔の苦しかつた生活とくらべると、まるで夢のようだというほかはない。去年の夏こゝで休養した十七才の劉玉英さんは、西北囯綿第四工場の紡績女工であるが、父のいない彼女は十三才で女工となりその翌年母が死んでからはまつたくのひとりぼつちとなり、さんざんな苦しみななめてきた。彼女は昔のことをおもいだしてこんなふうに語つた。「むかし、私は病気のとき、誰か水を一杯でも汲んでくれようものなら、その人がまるで親のような気がして、いつまでも忘れることができませんでした。ところがいまでは、こんな立派なところに公費でゆつくり休ませてもらいおまけに、休養所にいる間の賃金までくれます。毛主席が私たちにこんな幸福な生活をあたえて下さつたのです。私は考えれば考えるほど、涙が出てしかたがありまぜん。」またあるラシヤ工場の労働者で、今は副工場長をしている四十すぎの趙雲沾さんは「昔は生涯うだつのあがりようはなかつたんですが、今は目にみえて生活もよくなり、みんなの仕事にも大きなバリがでてきました」と語つた。

新しい中囯がうまれてから、また三年にしかならないのに、中囯の労働者たちはもうこんなにりつばな休養所をもつているだが、この幸福も、中囯の労働者がこんごますまず高めてゆく幸福の大きさにくらべたら、またほんのはじまりにすぎないといえるのだ。

「いまのところまだ二棟しかないけれど、これからさき、十棟も二十棟も建てゝ、働く人たちのみんなが、こんな生活をおくれるようになるのです。」

「郝建秀工作方法」をうみ出して全囯の模範労働者となつた靑島の紡績女工郝建秀が、こゝの休養所の開所式で語つたこの言葉こそ、明日の中囯労働者の幸福をはつきり予言している。

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