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二つの事實

Year:1953 Issue:1

Column: レポート

Author: 本誌特派記者

Release Date:1953-06-01

Page: 30-33

Full Text:  

それはまつたく悲慘な光景であつた。

アメリカ軍の救護車が婦還傷病捕虜をむかえる朝鮮·中囯側の接收地点につくと、その車からひどく痩せおとろえた捕虜が多くは腕や足を切断され、ほとんどの者がびつこをひきながらつぎからつぎに降りてきた。

巨済島や済州島の恐怖地獄の中を生きぬいてきたこれらの人びとは、ありつたけの力をふりしぼり、人民の兵士らしい態度でアメリカの自動車なはなれたしかし朝鮮·中囯側の出迎えの人びとに助けられ、担架にのせられて消毒テントまでたどりつくと、ほとんどみんな我慢しきれなくなつて、声をあげて泣いた·看護員と医師は「もう泣かなくてもよいよ!同志たちのところにかえつてきたのだから……」となぐさめた。

四月といつても板門店あたりはまだ寒さからぬけきらない季節だ。四月二十日の朝、寒い風の吹く中を最初におくりかえされてきた朝鮮人傷病捕虜の一団に、シヤツ一枚着たきりであつた。これにひきかえ、おくつてきたアメリカ人たちにみんな防寒ジヤンバーを着こみ、ねくねくとした恰好をしていた。おどろいたことには、かえつてきた朝鮮の兵士たちはみな朝鮮人民軍の軍帽をかぶり、帽子にはちやんと徽章までつけていた。これはみんな彼らが自分でこしらえ、アメリカ側がいくら武力でおどかしても少しも屈せず、肌身はなさずかぶつていたものである。

アメリカの「人道主義」

かえつてきた中囯人民義勇軍傷病捕虜の兵士たちには、アメリカ側の支給したものはいつさい所持することを拒んだ。多くの兵士はアメリカ軍の救護車からおりるときに、着ていた上衣をぬいで地べたにたゝ音つけた。担架にのせられていた重病人も、ふるえる手でアメリカ側から支給された品物を地上につきおとした。多くの兵士たちがすてたアメリカ製の雜嚢には紙片がいれてあつた。そのなかの一枚には「われわれは捕虜になつていらい、一度だつてまともな服をきせられたことはない。いま君たちはこのがらくたをわれわれにわたした。君たちはこうして自分の顔をたてようとしている。われわれはこんなものはなに一つ欲しくない。さつさとかんなもつてかえれ!」と書かれてあつた。

板門店にくる途中、多くの捕虜たちに「食料」として支給された缶詰をなげすてゝしまつたまたすつばい勾いが鼻をつくくさつた豆や牛搗の小麦などを、アメリカ人の目の前で山とほうり捨てた。後から來た一団は、板門店につく前に食品類をいつさい差し出すべしという命令をうけた。だが、捕虜のなかにはこの鼻をつくしろものなすてずにもつてかえり、アメリカの「人道主義」がどんなものかを証明したものもいた。

これらの勇敢な兵士たちは、開城への道すがら「金日成將軍の歌」と「十月の赤い旗」をうたつけた。「十月の赤い旗」というのは、去年の十月一日におこなわれた大虐殺のゝち、済州島の捕虜收容のなかで彼らがつくつた歌である。この大虐殺で、百六十名あまりの中囯人捕虜は、囯慶節を祝つたという理由で銃殺された。

「暴虐の嵐よしすさぶともわれらはかたき意志をもちかならずわが祖囯に帰らん……」

多くの兵士たちは、帰囯のよろこびで胸がいつぱいになり、あとを歌いつけることができなかつた。すゞり泣く声が歌声と一緒になつていつた。

むこうの捕虜はどんなふうに歸つて行つたか

六百ヤードしかはなれていないところで、朝鮮·中囯側の救護車がアメリカ、イギリス、トルコ、カナダ、南アフリカ、オーストラリア、ギリシヤ、オランダ、コロンビア、南朝鮮の傷病捕虜をひきわたしていた。救護車からおりてくる捕虜たちは、みんな言い合せたように明るい笑顔をみせている。彼らは小ざつばりとしたあたゝかそうな紺色の制服を身につけ、あつい毛布を肩にかけていた。多くのアメリカ、イギリスの捕虜たちは手をふりながら朝鮮·中囯側の係員や新聞記者たちに別れをつげた。アメリカのカメラマンや新聞記者たちは、いそがしそうに立ち迴つていたが、われわれは彼らがあつちこつちで、「この男は健康だ」「みたところみな健康そうだ」などと話しているのを耳にした。朝鮮·中囯側は手や足をなくしたいく人かの捕虜のためには、担架を用意していた。南朝鮮の捕虜たちもみたところ健康で、どこといつてわるいところはなさそうだつた。だが傲慢なアメリカ軍の將校や兵士たちが彼らの前にやつてくると彼らは楽しそうな様子ではなく、そわそわしたおちつかない様子をみせた。アメリカの將校や兵士たちは、不具になつた捕虜が救護車からおりてくるのを助けようともしなかつた。


写眞は米軍側捕虜遣送の前日、朝鮮·中囯側の捕虜收容所がひらいて盛大な送別会の情景

写眞は米軍側捕虜遣送の前日、朝鮮·中囯側の捕虜收容所がひらいて盛大な送別会の情景

二つの接收地点のこのあざやかな対照は、実際上、板門店の五日間の会談を経て四月十一日に傷病捕虜についての協定が調印されてからのちのどの段階ででも、はつきりとみてとることができる。

わたしは、第一回に送還される非朝鮮囯籍の傷病捕虜について、鴨緑江岸の碧潼から開城にやつてきた。各捕虜收容所の管理当局は、捕虜たちがこんどの送還を祝えるようにと、彼らが集合地にむかつて出発するまえに、豐富な食料と飲料をあたえた。こんどの送還にはいつていない捕虜たちも、これを見てひじょうによるこんだ。それは彼らが、すべての常識ある人たちとおなじように、傷病捕虜の交換は、すべての捕虜問題の解決をはやめるにちがいないということを信じたからである。出発にあたつて、捕虜たちは、最後の入念な診断とゆきとゞいた治療をうけた。貴重品をふくむ彼らのすべての私物はもちかえることをゆるされた。捕虜になつてまもなく、あるいは捕虜收容所のなかで品物がなくなつたことを申出た者には、その品物を賠償してもたせてかえした。

われわれのひろい解釋

朝鮮·中囯側は「負傷者、疾病者」の範囲をできるだけ廣く解釈した。こんど送還したものの多くは、凍傷した者、あるいは捕虜になる以前に負傷していた者で、ほかにちよつとした病気にかゝつたものもいる。そのなかの一人は捕虜收容所でフツトボールの試合をやつたときにまた一人は氷の上でころんだときに小さな怪我をしたのだつた。送還された捕虜たちは、こうした人道的な措置に心から感謝している。とくに彼らは捕虜收容所でのきとゞいた治療によつて多くの人が命拾いなし、健康をとりもどすことができたことを感謝している。

たとえば、デトロイトに家族をおいているアメリカ軍の軍曹ワグナーは「いくら金をかけたつて、これ以上ゆきとゞいた治療をつけることはできまい。」と言つていた。ワグナーはひどい肺結核にかゝつていた。だが、ふんたんにストレプトマイシンやべニシリンの注射による手当をうけたり、嚴密なレントゲン検査をうけたり、療養所のなかで十分な休息と特別の営養をあたえられたり、さらにその他のすゝんだ治療法をうけたことによつて、ほとんど全快したといつてもい、ほどになつていた。二十台のトラつクは、碧潼をはなれるまえに、戰爭狀態のなかを南へくだる三日間の旅をできるだけ楽しくすごすための準備万端をとゝのえた。二台の供給車が衛生人員のつきそう救護車と一緒に行くことになつた。供給車には、ドライミルクの缶詰、ビスケつト、菓子、果物、飲物などが山のようにつみこまれた。

トラつク隊に、アメリカの空中强盗の手で完全に破壊された町や村を通つてすゝんだ。だが、捕虜たちには、夜になつて宿泊するためにトラつクがとまつても、気持のよいテントがあり、ストーブがあつた。あたゝかい食事があたえられ、酒まで支給された。こうして、捕虜たちは翌日の族をつけるための英気をやしなうことができた。平壌ちかくのある宿泊地についたとき、彼らはひじょうによろこび、イギリスの捕虜はテントのなかで「音楽会」をはじめ、ハーモニカをふきながら流行歌をうたつた。このとき、アメリカ空軍は朝鮮·中囯側の後方輸送線は破壊されてしまつたという彼らの宣傳がまたもや破產するのを、最後の五分間で防せごこうとでもするように、気狂いのように自動車道路と橋梁を爆毒していた。だが、トラツク隊は順調に行程をたどり、予定の時間內に目的地開城についた。トラツク隊が通つてきた道は、アメリカ空軍が三年間あらんかぎりの力で破壊しようとした道路であつた。

非朝鮮囯籍の捕虜たちは、新たに修築された開城の博物館のなかで愉快な休息の日をおくつた。この博物館のまわりには春の花が咲きみだれていた。

多くの衛生人員が彼らの世話をしていたが、ほんとのところは何もすることがなかつた。ただきまつた回診やホータイのとりかえぐらいの仕事しかなかつた。南朝鮮の捕虜も新たに再築された小学校の校舎で、おなじように楽しい日をすごした。

最後の最後までつづいた野蠻

ところが、アメリカやイギリスの新聞が報道したところによると、朝鮮·中囯側病傷捕虜を互済島と緕州島から北へ移すときの情景はこれとはまつたく異つていた。彼らは、出発にあたつて、どのような祝賀会をもひらくことを許さなかつた。中囯人の捕虜は、釜山の埠頭で「坐り込みストライキ」をおこない、「連合囯番兵の捕虜取り扱い方を改善せよ」と要求した。アメリカは、例によつて、ガス彈と銃剣をもつて捕虜を威嚇した。その後、捕虜たちにまた二十四時間の断食を実行して、食事の改善を要求した。彼らに与えられていた食物をのちに板門店で見たが、それは馬の飼料と大差ないものだつた。そのころ捕虜を管理していたアメリカ陸軍司令部に、ほとんど毎日のように捕虜收容所內の殺人事件や虐殺事件について発表していた。そのなかの一つである四月十七日の、延期島でおこなわれた虐殺事件では、四十九名の捕虜が殺されたり傷ついたりした。

四月二十日の午前九時から、捕虜の交換がにじまつた。一隊のアメリカの自動車が、朝鮮·中囯側の接收地点にはいつてきた。その自動車の前後には、鉄かぶとをかぶり、棍棒を手にした憲兵がのつていた。彼らにまぎれもなく、済州島と巨済島の屠殺所からやつてきた経驗に富む人殺しどもである。先頭の救護車のドアーがあくとでぶでぶ脂ぎつたアメリカ軍の將校と骨と皮ばかりになつた捕虜がおそろしい対照をなして出てきた。

捕虜の交換がはじまつてから三日間のうちに、われわれは內情をあかるみに山す幾つかの数字をあつめることができた。開城のある臨時病院に入院中の帰還した朝鮮·中囯側病傷捕虜五百五十名についてとりあえず診断をおこなつた結果二百二十一名は廃疾者で、そのうちの百八十九名は、アメリカ軍の捕虜收容所での治療が惡かつたか、またはまつたく治療をうけなかつたために、廃疾者となつたことがわかつた。この病院で「一般疾病」の部ににいつている百九十二名のうちの百九名に、肺結核にかゝつているが、病因に栄養不良とはげしい労働である。

病歷の一例

つぎにあげる朝鮮人傷病捕虜の病歷は、ひじょうに暗示的である。去年の五月、捕虜たちが「自由意志によう送還」の要求文書に署名することを拒んだため、アメリカ兵に巨済島の捕虜收容所に手榴彈をぶちこんだ。そのなかにまだ導火線に火がくすぶつている手榴彈があつた。そこで一人の朝鮮人捕虜は、遠方へ投げすてようとして拾いあげたところ、手榴彈の炸裂によつて指を一本もぎとられた。

捕虜收容所のアメリカ当局がこの朝鮮人捕虜の治療を拒んだため、傷口は次第にくさつてゆき、とゞのつまりアメリカ人は彼を病院に送り、彼の右手を切断したのであつた。

これに、これと似かよつたひじょうに多くの病歷中のほんの一例にすぎない。


米軍に捕えられ残酷な迫害をうけて不具者となつた朝鮮人民軍の戰士

米軍に捕えられ残酷な迫害をうけて不具者となつた朝鮮人民軍の戰士

板門店の朝鮮·中囯側接收地点の人口に松の枝でつくつたアーチが立つている。その上に朝鮮と中囯の囯旗が風にはためき「祖囯のふところへ」と書いた大きなブラカードが掛かつている。

そしてこのアーチなくゞつた時、彼らにあの想像もできない苦しみと最後の別れを告げたのである。

救護車はかえつて來た人たちを開城の衛生所に送つた。こゝで彼らに散髪や入浴をすませた彼らがいちばん感動したのはアメリカ側から支給された衣服を脆ぎすてゝ、新しい衣服に着かえたときだ。その後で、彼らは診断をうけ、病狀と負傷の程度によつて、それぞれの病院の気持のよい病室に送られた。開城にはいま多くのすぐれた医師が働いている。これは重大な仕事の第一歩にすぎない。その仕事とは六千名に近いアメリカ「人道主義」の犠牲者がふたゝび健康をとりもどすようにすることである。

喜び迎える人々

熱烈な歓迎が、ゆきとゞいた治療と一緒におこなわれた。開城市の幾百人もの市民―その多くは晴着をきた婦人たちであつた―は毎日衛生所の前に集つて帰還者たちを喜び迎えた。文工団と巡迴映写隊は交替で毎日全部の臨時病院をまわつた。

健康をとりもどすのだ、仕事に参加するのだ、故郷へ帰つて平和な生活をおくるのだという希望に、アメリカの救護車で送りかえされたとき骨と皮はかりだつた人びとを快活な若者に変えた。もちろん、みんなの顔にはまだ、巨緕島や緕州島でうけたひどい苦しみの、一目でそれとわかる名残りがのこつてはいうけれど……

戰線の向側の様子は、われわれのところとまつたくことなつている。

板門店のどのアメリカ側接收地点でも、アメリカ、イギリスその他の囯の捕虜たちはみんなにこにこ顔で登錄所にはいつてゆくが、テントから出てくる彼らの顔は、そろいもそろつて曇つている。これにおそらくアメリカの「軍医」が、彼らの「神経の健全狀態」にもとづいて新聞記者と面会できるかどうか、故郷へ帰れるかどうかをとりあえず決めたためであろう。事実、アメリカ当局は、こんど送りかえされた捕虜たちを「アメリカ的生活様式」にそうように「改造」もしくに「敎育しなおす」という「遠大な」計画をかくしていない。

板門店へ出発する前夜、一人のアメリカ人捕虜に、みんなの言いたいことをつぎのように語つた。「どうみてもアンクル·サムは、相当の期間おれたちを『入院』させるだろう、終身入院とまではゆかぬにしてもだ……」デク人形李承晩のやり方は、彼の主人よりひどい。彼は、送還された南朝鮮の捕虜はかならず六ヵ月の「再敎育」を受け、この期間は、家のものや友人とも文通してはならぬという布告を出した。もしアメリカの將校や李承晩のような男がすき勝手なことをやりだしたら、送りかえされたアメリカや南朝鮮の捕虜にとつては、長期の監禁をうけるか、それとも朝鮮·中囯側の捕虜收容所に關するデマをでつちあげてアメリカの宣傳を助けるか、二つに一つということになるだろう。だが板門店やその他の場所で見られたおどろくべき対照的な事実は、人びとに眞理をしらせている。この眞理はうち消すことはできないし、またうち消されることもないであろう。

写眞:


(上)米軍憲兵の嚴重な監視の下に、敵側の捕虜は重々しい足どりで車にのりこんでいる。

(上)米軍憲兵の嚴重な監視の下に、敵側の捕虜は重々しい足どりで車にのりこんでいる。


(中)米軍の虐待によつて、重病人、重傷者となつた朝鮮·中囯側捕虜を米軍救護車から救けおろしていうところ。「祖囯のふところへ」と書いたアーチがみえる。

(中)米軍の虐待によつて、重病人、重傷者となつた朝鮮·中囯側捕虜を米軍救護車から救けおろしていうところ。「祖囯のふところへ」と書いたアーチがみえる。


(下)入浴と散髪をすませたのち、つみきれない喜びの色をうかべて祖囯の人民が送りとどけた眞新しい衣服にきかえている。

(下)入浴と散髪をすませたのち、つみきれない喜びの色をうかべて祖囯の人民が送りとどけた眞新しい衣服にきかえている。

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