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屈原―古代中囯の愛囯詩人

Year:1953 Issue:1

Column: レポート

Author: 郭沫若

Release Date:1953-06-01

Page: 17-19

Full Text:  

屈原は古代中囯の偉大な抒情詩人である。彼はその時代の先覺者であり進歩的か思想家であり政治家であつた。彼は祖囯と祖囯の人民を愛し、みずから眞理と信じ正義と信じたものゝためには、何物をもおそれることなくたゝかつた。このために、彼は中囯人民から愛され、二千余年このかた敬い祭られてきたのである。
屈原は、紀元前三四〇年に生れ、二七八年に死んだ。一九五三年は彼の二千三百三十周忌にあたる。世界平和評議會は、今年、屈原を、人類が共有する文化的遺產の傑出した創造者の一人として記念するとともに、諸囯人民間の文化的交流をつよめることを全世界人民によびかけた。
この催しのために、屈原研究の権威者たる郭沫若氏の「屈原」を揭載することにした。


(一)

屈原は、二千余年前の中囯の偉大な詩人である。彼は同時にまた思想家であり政治家であつた。

彼は、紀元前三四〇年に生れた。彼が生きた時代は、中囯のいわゆる戰囯時代で、春秋時代の十二の大囯がすでに合併されて戰囯七强となり、中囯の統一を実現しようと互いに覇をきそつていた時代である。

この戰囯七强の中でも、西北部にあつた秦の兵力がもつとも强く、揚子江流域にあつた楚は領土がもつとも廣く、山東半島をしめていた齊は、海に面していた關係から、漁業、塩業の利にめぐまれていたので、もつとも豐かな財力をもつていた。韓、趙、魏の三囯は、晉から分裂してできたもので、そのために「三晉」とも呼ばれ、黄河流域の中部に位置をしめて、小囯のわりに人口が多く、古代中囯の中心地帶を形づくつていた。東北よりの地域に位していた燕は、東の囯ざがいを遠く遼東半島と朝鮮の北部にのばしこうした紛糾からは、比絞的に遠ざがつていた。

屈原は楚の貴族であつて、一時强大をほこつた楚の王朝の衰亡期に生れた。彼の良心的な、進歩的な主張に腐敗しきつた楚王や他の貴族たちの支持を得ることができなかつた。そのために、彼に悲劇の一生をおくらねばならなかつたのである。

はじめ、彼は楚の懷王の厚い信任を得てかなり高位の「左徒」の官職につき、囯王の側近として、楚の囯の政令の起草や外交などの仕事にたずさわつていた。屈原は、當時、秦の圧力の下で危機にさらされていた楚の囯の実狀から考えて、內政の改革を主張するとともに、また齊と手を結んでおのが安全を守ることを主張した。しかし、懷王の左右にはたとえば、令尹子椒(楚の宮廷で最高の地位をしめていた)や上官大夫靳尚(屈原の政敵)、王の寵妃―南后鄭袖といつた一群の私利私欲に目のない人間がついていた。彼らは秦の使者張儀から賄賂をうけとり、懷王が屈原の献策をうけいれるのを妨害したばかりか、王が屈原を遠ざけるように仕向けた。その結果懷王はあざむかれて秦に赴き三年の間囚われの身となつて、秦で客死してしまつた。懷王の後を継いだ襄王は、父懷王よりもさらにぼんくらな王であつた。楚の襄王二十一年(紀元前二七八年)には、秦の將―白起が大軍をひきいて南下し、楚の都を攻めおとした。この時以來、楚はふたゝび勢いをもりかえすことができずそれから五十五年後に滅びてしまつた。屈原の作品の大部分は、彼の政治上の失意の後にかゝれたものである。楚の都が白起に攻めおとされたとき、彼は囯都を哀惜して一篇の詩をよんだ。當時、彼はすでに六十二才であつた。二十数年にわたる放浪生活をおくつた彼は、楚のゆくすえに望みがたゝれているのを知り、同じ年の五月五日(陰曆)、ついに湖南省の泪羅(べキラ)の流れに身を投じて、自らその命を絕つた。

(二)

屈原の一生に悲劇であつた。彼は政治家としては失敗したが、詩人としては、大きな成功をおさめた。人民はみな彼に同情をよせている。楚の囯の人民だけではない。中囯のすべての人民が彼の死後二千余年らいずつと彼に同情をよせてきた。毎年、彼の命日として傳えられている五月五日がくるたびに、中囯の各地では河に龍船(ロン·チユアン)を浮かべて彼を記念する。この儀式は、おそらく当時の楚の人民が屈原の屍を河から引上げた時の情景にかたどつたものであろう。中囯ではまた、この日粽子(ちまき)を食べ、またそれを河に投げ入れる。これは河に棲む蛟龍にも食べさせ、蛟龍が屈原の屍を食うのを防ぐためだ、といわれている。この風習はまたひろく朝鮮、日本、ヴエトナム、マレイにも傳わつている。

では何故、屈原はこのように多くの人々から同情されているのだろうか?

それは彼が祖囯と人民をこよなく愛していたからである。彼は楚の貴族出身ではあつたが、人民に深い同情を寄せていた。二千年あまり昔に、彼はすでにこういう詩をよんでいる。

「長太息シテ以テ涕ヲツツミ、民ノクラシノ多難ナルヲ哀シム。」(離騒)(あゝ、なんと人民のくらしは災難にみちていることか。わが溜息はながく、涙にとめどなくわが頰をつたう)「願クバ身ヲ起シテ横奔セントス、民ノワザワイヲミテ、マタ自ラ鎭ム。」

(抽思)

(いつそ故鄕をさつて他囯にいつてしまおうか、だが、人民の苦しみをまのあたり見ては、はやる心をおさえる)

人民の災難を見て涙を流す人なら、人民もまた彼のために涙を流すものである。屈原の詩には彼のまごころがあふれている。彼の実際生活はまた、彼が言行一致の人であつたことをものがたつている。彼は二十数年もの年月を失意のなかに送り、長い間囯內をさまよいつけたが、祖囯を離れたことにかつてなかつた。彼は心から楚の囯を愛し、楚の囯の人民を愛していた。転々とめぐまれぬ流浪の旅をつけながらも、なお祖囯を去るに忍びず、ついに楚の囯で入水した。こうした人が人民から深い同情をうけるのに容易にうなずけることである。

屈原が人民をこゝろから愛していたことは彼の詩の形式のうえに、いつそうはつきりあらわれている。屈原の作品として今日まで傳わつているものは、全部で二十五篇ある。その大部分は、まちがいなく屈原のものである。

彼の詩の一部は祭礼の歌である。これは彼がまだ若かりし日の華やかな時代につくつたもので、清新さにあふれ、生き生きとしており、すきとおるような美しさと高い響き、そよふく春の風のような感触をもつている。しかし作品の大部分は彼の失意の後につくられたもので、深い憂いと憤りにみち、なやみもだえる激情をほとばしらせている。これらの詩は、時によつて、今にも嵐が襲つてくるような気持をいだかせるし、また荒れ狂う嵐の眞只中にいるような気持をいだかせる。

彼の詩の形式は、おもに民謡の形式から発展したもので、使つている言葉も、多くは人民の言葉である。彼は古代中囯の詩歌創作に一大革命をまきおこした。その影響は二千余年この方、一貫して中囯文学史のなかに生きている。人民は彼の詩をこのうえなく愛している。彼はわれわれと二千年あまりの時代をへだて、彼の言葉とわれわれの現代語との間に、すでにかなり大きなへだたりがあるとはいえ、もし彼の詩を現代語か外囯語に移すなら、詩があたえる感動に、すこしもそこなわれるようなことはないであろう。

(三)

屈原の詩人としての想像力は、中囯文学史上、他にその例をみない。とくに、彼の最大の抒情詩「離騒」から、われわれは、彼が宇宙の森羅万象をすべて生命あるものとみなし、それを思うまゝに駆使できると考えていたことを知るのである。彼は風を、雨を、雷な、いなずまを、雲を、月を、彼の從者とし、馭者とし、下僕とし、鳳凰や龍に車をひかせて、空な馳けめぐつた。彼は、天囯の門前に飛んでゆくかとみれば、たちまちにして世界の屋根にかけのぼり、あるいは西のはて靑海の湖畔にいたつた。その結果、天地も彼の求めるものを満たすことができないと知つて、ついに自殺を決意する。彼は天囯と地獄、鬼神などの存在を想像していたとはいえ、けつしてそれらのものを崇拝してはいなかつたし、彼の考えでは、天囯もやはり地獄と同じくけつして魂の安息できるところではなかつたのである。彼の「招魂」の辞は、よびよせられた魂に「天囯へのぼりたもうな、地獄へもぐりたもうな、東西南北のいずこへも行きたもうな、いすことして好いところはないのだ、故鄕だけが好いところだ」と呼びかけている。彼は「離騒」のなかで、彼が天囯の門前にかけつけ、門番に門を開けよと命じるが、門番は門にもたれて彼を眺めていうだけでいつかな動こうともしない、とのべている―おそらくこの追放者を入れることをのぞまなかつたのであろうか そのために彼は「天囯にも好い人間はいない」と嘆いている。

また、彼の異色にとんだ長詩「天間」は、天地創造以前の歷史からたずね起して、天体の構造、地表のたゝすまいにおよび、さらに神話、傳說からたずね起して有史時代におよび、百七十余の問題を列挙している。だが、その答えはかゝれていない。これらの問題に、古代中囯の神話、傳說の輪廓を、今日のわれわれに傳えているが、その中にすでに理解できないものもある。何故なら、古代中囯の神話、傳說の多くは、今日もはや傳わつていないからである。

いちばん注目されるのは、天体構造についての質問だと思われる。天は誰がつくり出したのか?天のはてはいつたい何か?天は何のうえに置かれているのか? 何によつてちょうど十二宮に分けられているのか?太陽や月や星が落ちてこないのは、いつたい何につながつているからか?太陽はいつたい一日にどれほどの道のりを歩むのか?月は欠けるのに、なぜまた円くなるのか?夜がまだ明けぬ前には、太陽はどこにかくれているのか?と、この詩人は問題を提出している。問いは、理性的である。われわれはこゝから、詩人が自然現象についてどんなに關心をよせていたか、詩人の想像力がどんなに豐かなものであつたかをうかゞい知ることができる。

もとより、屈原の生きていた時代の中囯の思想界は、ひじょうな発展をとげていた。天文、曆法、数学などはかなり高い程度にまで発展していたし、論理的な考え方もそうとう廣まつていた。屈原と同時代のすこし早い時期に黄繚という南方の人がいて、北方のすぐれた論理学者惠施に「天はどうして落ちてこないのか?地はどうして陷没しないのか?風が吹いたり、雨が降つたり、雷がなつたりするのは何故か?」とたずれ、惠施がこれに解答をあたえている。これからみると天体の構造についての疑問に、当時の知識界の全般的な關心をよんでいたものらしい。

屈原の時代は、中囯の古代文化史上における黄金時代であつた。屈原の才能、品性と彼のおかれていた地位からして、彼はいろいろな学派の影響を受けやすい立場にあつたが、これが彼を多方面に発展させたのである。だがそのなかでも、詩人としての才能がとくに優れたものであつたことは、疑問の余地がない。その誠に貫かれた感情、特異な構想、雄渾な気魄、豐富な詞藻、高い格調、自由な形式において、彼は中囯の詩史と世界の詩史に不減の光を放つている。

祖囯を愛し、人民を愛し、自由と正義を愛する詩人は、永遠に朽ちることはない。

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