日本の敗戦が色濃かった一九四五年五月、父·持永只仁は体調を崩し(身体障害者のため兵役を免れていた)、静養のため、母、祖母、そして私を伴って母方の両親が住む新京(現·長春)へ向かい、福岡県博多港を目指していた。当時は朝鮮半島を経由して、中国に入るのが最短距離で安全でもあった。しかし、博多は空襲に遭い、港は機雷で封鎖され、連絡船の出航は山口県仙崎港とわかったため、汽車を乗り継いで仙崎へ急いだ。食料は私...
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日本の敗戦が色濃かった一九四五年五月、父·持永只仁は体調を崩し(身体障害者のため兵役を免れていた)、静養のため、母、祖母、そして私を伴って母方の両親が住む新京(現·長春)へ向かい、福岡県博多港を目指していた。当時は朝鮮半島を経由して、中国に入るのが最短距離で安全でもあった。しかし、博多は空襲に遭い、港は機雷で封鎖され、連絡船の出航は山口県仙崎港とわかったため、汽車を乗り継いで仙崎へ急いだ。食料は私...