古代、広州は番禺(ばんぐう)と呼ばれ、二千百年前は南越国の都だった。南越国は、秦の南海郡竜川県令の趙佗(ちようた)が紀元前二〇四年、嶺南に建てた地方政権で、その領域は現在の広東省から広西チワン族自治区、ベトナム北部の一部にまで及んでいた。東西に走る南嶺山脈を障壁として、時には漢王朝に服従し、時には対等な国家として独立し、「皇帝」と称した王も出て、五代九十三年間続いた。嶺南の古代史上、相当重要な位置...
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古代、広州は番禺(ばんぐう)と呼ばれ、二千百年前は南越国の都だった。南越国は、秦の南海郡竜川県令の趙佗(ちようた)が紀元前二〇四年、嶺南に建てた地方政権で、その領域は現在の広東省から広西チワン族自治区、ベトナム北部の一部にまで及んでいた。東西に走る南嶺山脈を障壁として、時には漢王朝に服従し、時には対等な国家として独立し、「皇帝」と称した王も出て、五代九十三年間続いた。嶺南の古代史上、相当重要な位置...