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Your search : [ author:写真·文 何竜盛] Total 488 Search Results,Processed in 0.063 second(s)
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301. 高玉森氏 1万冊のコレクション
私が高玉森氏の名前を知ったのは、中国·中央テレビ局(CCTV)が制作した『ある農民の蔵書プロジェクト』というドキュメンタリー番組を見たときだった。その番組は、彼が山東省淄博市臨淄区高陽鎮の人で、その蔵書の数は一万冊以上、総額六十万元(一元は約十四円)の価値を持つと紹介していた。彼のコレクションの特徴は、高価な値のつく珍しい書物のほかに、中国各地の地方志を四千冊以上も含んでいることにある。なんと、国
Author: 写真 文·鍾才府 Year 2001 Issue 7 PDF HTML
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302. 竹カゴに込めた愛を贈る日
ダイ(傣)族は、雲南省の十五少数民族の一つで、人口は百六万人、その九〇%以上が、北緯二五度以南、海抜五〇〇から一三〇〇メートルの低海抜地帯に住む。新平イ(彝)族ダイ族自治県内にある哀牢山のふもとには、その一支族である花腰ダイ人が暮らす。花腰ダイ人は、現在六万人、九五%がこの地域に住むという。伝説に登場する「百越」「滇越」は、花腰ダイ人の先祖であるといわれる。彼らはインドから伝わった仏教の影響を受け
Author: 写真 文·成衛東 Year 2001 Issue 7 PDF HTML
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303. 湖面を渡る聖なる像
雲南省大理のペー(白)族には、一種の宗教のような本主(ベンジュ)信仰がある。本主は、土地を司り、村人の禍福をすべて掌握する神である。本主をまつることによって、ペー族は、五穀豊穣と家畜の多産、厄除けを願う。村ごとに本主がおり、一部の土地では、さらに家族ごとに本主がいる。それぞれの本主に、廟があり、本主の地位、また祭る者の財力によって、相当の規模にもなる。本主としてまつられる者は、民族の別や過去の戦い
Author: 写真 文·楊振生 Year 2001 Issue 8 PDF HTML
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304. 青空の下に広がる大タンカ
車がラサ西郊に十二キロほど進むと、ゴンウズェ山のふもとに、巨大なチベット式の建築群が見えた。チベット仏教の一派であるゲルク派四大寺の一つ、レプン寺である。チベットの歴史上、最大規模で、かつては一万人以上もの僧侶が暮らしていたレプン寺は、広く名前を知られている。毎年八月(チベット暦では七月)、レプン寺ではショトン祭りが開催される。ショトン祭りは、チベット語では、「ヨーグルト祭り」の意味になる。十一世
Author: 写真 文·成衛東 Year 2001 Issue 9 PDF HTML
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305. 華やかに勇者を称える日
ザミ村は、雲南省紅河ハニ族イ族自治州の南端、金平県にあるダイ族の山村で、この地は、中国とベトナムの辺境にあたる。村の「男人節」に参加するため、私は昆明から汽車に乗り、七百キロ先の目的地に向かった。険しい山をのぼり、渓谷を越え、丸々一日半を費やして、ダイ族の山村にようやくたどりついた。それにしても男性の祭りとはあまり聞きなれないものだ。村についたその夜、私は今年六十歳になるダイ族の老人、李金貴さんを
Author: 写真 文·劉世昭 Year 2001 Issue 10 PDF HTML
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306. 北京 緑あふれる都市広場
北京で近年、目立つのが、都市広場と緑地の増設だ。市街区の広々とした緑地が、新しい北京の景観を生み出している。とくに今年は市街区で、一万平方メートル規模の大きな緑地十カ所と、五百平方メートル規模の小さな緑地百カ所の建設が行われており、それにより北京の緑化率が三七%に達する予定だ。また、二〇〇八年オリンピックの北京開催決定は、環境保護においてもすばらしいチャンスをもたらした。北京オリンピックのスローガ
Author: 写真 文·魯忠民 Year 2001 Issue 12 PDF HTML
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307. 熱く燃える極寒の大雪原
十五夜の月が空高く昇ったのに、 どうして雲は寄り添わないのだろう? 美しいあなたを待っているのに、 どうして私のそばに来てくれないのだろう? もし雨が降らなければ、 カイドウの花は咲かないでしょう? あなたも我慢強く待っていれば、 愛しい人はもうすぐ駆け寄って来るでしょう。これは民謡『敖包(アオバオ)相会』の一節だ。映画『草原の人々』の挿入歌で、その優美なメロディと叙情的な歌詞が多くの人に親しまれ
Author: 写真 文·劉世昭 Year 2001 Issue 12 PDF HTML
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308. 二十四人の皇帝が暮らした宮廷
十五世紀初め、中国明代の第三皇帝朱棣(成祖永楽帝)は即位後に、南京から北京へと都を移した。その後、永楽四年(一四〇六)に始められた宮廷建設は、永楽十八年(一四〇六年)に完成。中国古代の占星学により、天空の中心にある天帝の座·紫微星(北極星)に対して、天帝の子である皇帝の城は地上の中心であると考えられたことから、宮廷は「紫禁城」と名付けられた。一九一一年の辛亥革命で清が滅び、最後の皇帝·溥儀が紫禁城
Author: 写真 文·劉世昭 Year 2002 Issue 1 PDF HTML
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309. 船曳(ふなひき)の人夫たち
古代の中国では、険しい道を切り開くよりも先に、便利な水路が発達した。それは最も早くから利用された水上の交通·運送ルートであった。南から北に至るまで、河川や湖、海の上では多様な船(舟)が往来したのである。河川の船は、帆を揚げて舵をとり、流れにそって河を下れば、「一瀉(いっしや)千里の勢い」だった。しかし、流れに逆らい河を上れば、「進まず、退く」ことになる。そこで船を上流に運ぶためには、船曳(ふなひき
Author: 写真 文·魯忠民 Year 2002 Issue 2 PDF HTML
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310. 百家鎖
中国には昔、「百家鎖(ハイシァスゥオ)」という首飾りを、子どもの首にかける風習があった、子どもの誕生100日目になると、親戚や友人たちがお祝いにかけつけ、赤ちゃんの首にかけて、長寿や富貴、幸せを願ったお守り用の装身具である。子どもの幸せを願うと同時に、贈る側にも負担がかからないよう、通常は多くの家から銀を集めてつくられたという。民間の「護符」(守り札)であった百家鎖は、首にかけることで「しっかりと
Author: 写真·文 魯忠民 Year 2002 Issue 2 PDF HTML