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Your search : [ author:写真 ·文 劉世昭] Total 5016 Search Results,Processed in 0.112 second(s)
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11. 家教熱 家庭教師に見る需給関係
生活水準の向上とともに知識欲も高まる一方。いま中国の都会では家庭教師、略して「家教」につく人が急速に増えている。この家教につく人には四つのタイプがあることが、今回の取材を通じてわかった。まず第一に「趣味·啓発」型というのがあり、これはほとんどが小学生。第二の「特定科目の補習」は中学生に多く、第三の「短期強化」は入学試験を控えた高校生とか資格試験をめざす社会人。そして第四の「業務研修」は社会人に限ら
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1994 Issue 12 PDF HTML
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12. レフェリー変じて運転手
このミニバンタクシー、愛称を麵的(ミエンディ)という。的は的士(タクシー)の略、麵はパンのことで、ボディーの形がなんとなく食パンに似ているというわけ。いま北京には三万台の麵的が走っているそうだが、ここに登場願った王鎖立さんは、並のタクシードライバーではない。生まれは一九五六年。子供のころからスポーツが大好きで、とくにサッカーが得意、中学では全校チームの選手として活躍していた。だが、当時の先生の影響
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1995 Issue 9 PDF HTML
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13. 烏江の源流を見た!
烏江は長江の主要な支流の一つで、貴州省西北部の烏蒙(ワーモン)山麓に発し、威寧(ワエイニン)県内から二十二の市、県を通って重慶市涪陵(フーリン)で長江に合流する。全長一〇三七キロ、水面の落差は二一〇〇メートルに達し、流れが急で、両岸の崖が険しく、「烏江の天険」と呼ばれている。「山に登れば雲の中、山を下れば川の岸、対岸は声が届くほど近いのに、会おうと思えば一日かかる」という俗謡もある。記者は威寧から
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1997 Issue 10 PDF HTML
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14. 「長角ミャオ」の山村·六枝
烏江の源に別れをつげ、汽車で六枝に着いた。六枝のソジャ郷には「長角ミャオ(苗)」の山村といわれるロンジャ村がある。バスに乗り換え、ロンジャへ向かう。烏江の北岸約二〇キロの烏蒙山の山中にあるロンジャ村は、海抜一七〇〇メートル、百四世帯、四百七十二人が住むミャオ族の山村だ。婦人たちが昔から伝わる独特の角を頭に飾りつけているので、ここの人たちは「長角ミャオ」と呼ばれる。夕餉時に、ロンジャ村に着いた。寝泊
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1997 Issue 11 PDF HTML
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15. 織金県―鍾乳洞の王国
貴州省にはいろいろな景観のカルスト地形が多い。今回は貴州省南部の織金県を取材した。前回で紹介のロンジャ村からわずか一山の隔たりで、直線距離は五〇キロそこそこだが、九十九折りの車道をすすむと二〇〇キロの回り道をする勘定になる。湾曲がひどく、車は時速二五キロでのろのろすすむ。もどかしいかぎりだが、車窓からみごとな山峰、鍾乳洞の外観、天然の「橋」……などをじっくり愛でることができた。織金の町は山に囲まれ
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1997 Issue 12 PDF HTML
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16. 明代の兵士の子孫が生きる·安順
織金(チーチン)を離れ、烏江(ウーチアン)対岸の安順(アンシユン)市にやってきた。この町の歴史は春秋時代(前七七〇~前四七六年)にまでさかのぼる。そのときは牂牁(そうか)国に属し、戦国時代(前四七五~前二二一年)には夜郎国に属した。中国には「夜郎自大」という成語があるが、これは身のほどをわきまえずに威張ることを指し、漢時代(前二〇六~二二〇年)に西南にあったこの夜郎国の君主が、漢からの使者に向かっ
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1998 Issue 1 PDF HTML
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17. 修文県の六広大峽谷
烏江(ウーチアン)の流れは、水源から三五〇キロほど離れて修文(シウウエン)県に入る。修文県の中心地から約一·五キロほどのところにある竜崗山(ロンカンンヤン)の陽明洞(ヤンミントン)は、明代の著名な思想家·王陽明ゆかりの地である。明の皇帝·武宗の治世―正徳元年(一五〇六年)、王陽明は無実の罪で貴州の竜場駅(現在の修文県県庁所在地)に左遷され、駅丞(えきじょう)(宿場を管理する役人)を務めた。王陽明は
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1998 Issue 2 PDF HTML
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18. 甕安(ウォンアン)―荒々しい烏江を“飼いならす”
烏江の流れは巨大なカルスト地形の流域に差し掛かった。流れはしばしば地下にもぐり、峡谷は一段と険しさを増し、世にも珍しい風景が広がる。地形が険しいために、烏江の上り下りは大変で、両岸の人々の行き来も容易でない。しかしこの辺りの住民は、千年単位の長い歳月を掛けて、荒々しいけものを徐々に飼いならすように、烏江と付き合ってきた。この地方では烏江を渡るということに多くのエネルギーが費やされている。舟の渡しは
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1998 Issue 3 PDF HTML
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19. 始皇帝の長城に登る
北京を初めて訪れた人は、必ず八達嶺の長城に足を運ぶに違いない。二千二百年前、初めて中国を統一した秦の始皇帝は、万里の長城の建設に多くの金と労力をつぎ込んだ。あまりにも有名な話なので、長城と言えば、秦の始皇帝がすぐに連想される。だが、有名な八達嶺の長城は、始皇帝の時代から千六百年も後の明代に築かれたものだ。専門家の最新の研究によると、秦の始皇帝が建造した長城のうち、最もよく原形をとどめているのは、陰
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1999 Issue 2 PDF HTML
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20. 江南の水郷周荘をゆく
江蘇省の蘇州から東南に約三十キロ、湖をへだてて上海市の青浦県をのぞむところに、周囲を川に囲まれた周荘鎮という町がある。町の中をさらに四本の小さな川が「王」の字の形に流れ、遠く二千年以上も前の春秋戦国時代から、人々はこれらの川とともに生きてきた。さまざまの時代のさまざまの様式の橋が至るところにあり、民家はすべて水にのぞんで狭い土地に高く屋根を連ねる。その情景はまさに「小橋あり、流水あり、人家あり」「
Author: 写真·文 劉世昭 Year 1999 Issue 3 PDF HTML