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Your search : [ author:鍾明善] Total 7 Search Results,Processed in 0.155 second(s)
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1. 「鴛鴦七誌斎」収蔵の魏墓誌
西安碑林には多くの能筆の魏碑石刻があるが、それらは千数百年も地下に埋もれていたのである。それらが発掘され、やっとこの世に姿を現わしたのは、本世紀の初めごろ、隴海(蘭州-連雲港)鉄道の路線工事がすすんだときのことであった。そして、これらの逸品を収蔵し、のち国家の管理にゆだねたのは、中国近代書道界の大物、于右任氏である。于右任(ユイユウレン)(一八七九~一九六四)は、著名な書家であるばかりでなく、好事
Author: 鍾明善 Year 1982 Issue 10 PDF HTML
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2. 于右任の近代草書
一九六四年にこの世を去り、台湾省台北県大屯山の八拉墓園に葬られている于右任氏は、中国近代を代表する著名な書家のひとりである。于右任(ユイユウレン)氏(一八七九~一九六四)の本名は伯循で右任は字(あざな)だが、この字を使いはじめてからは、ずっと字で通している。号は、神州旧主、騒心、髯翁、太平老人など。原籍は陝西省涇陽県斗口村で、生まれは陝西省三原県東関河道巷であるが、青年時代も少年時代も三原で過ごし
Author: 鍾明善 Year 1982 Issue 12 PDF HTML
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3. 後漢·「石門頌」
『史記』によれば、劉邦は項羽から漢王に封ぜられると、関中から漢中に移るが、その際、張良発案の謀計を用いて、途中の崖の桟道をすべて焼きはらって、自分たちはふたたび帰る意志のないことを示して、項羽を安心させようとしたのであった。しかし、その後まもなく劉邦は、表面ではまた桟道をつくりはじめた。と同時に軍隊を率いて西の陳倉(今の陝西省宝鶏市の東)から関中にもどる。これがいわゆる「明かに桟道を修め、ひそかに
Author: 鍾明善 Year 1983 Issue 10 PDF HTML
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4. 唐·裴守真の「李愍碑」
唐の初年、太宗李世民に随って天下を争った文臣武将のなかでも、李愍(りぴん)は勲功抜群の一人である。李愍、字は強、隴西·成紀(今の甘粛省階西県付近)の人。漢の飛将軍李広の子孫にあたる。代々、貴族の名家で「幼なくして仁孝の節を懐(いだ)き、長じては忠謹の誠を抱(いだ)く」「容儀迥抜(ようぎけいばつ)にして、奇貌魁梧(きぽうかいご)、倜傥(てきとう)(超然)して群せず」であった。唐の太宗に仕えてから、「
Author: 鍾明善 Year 1984 Issue 11 PDF HTML
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5. 北魏·姚伯多造像記
陝西省耀県の五台山は、県城の東南一キロ半のところにあり、県城西南の高原台地落星塬と、河を隔てて相対している。曲がりくねった山道を登って行くと、緑の松柏におおわれて、唐代の著名な医学者孫思邈を記念して建てた古い廟がある。このため五台山はまた薬王山とも言われる。廟には碑石が林立している。医学史上かくかくたる名声のある数十の「千金方」碑のほかにも、北朝、隋、唐、宋、元、明、清各代の大量の造像記等の刻石が
Author: 鍾明善 Year 1986 Issue 1 PDF HTML
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6. 唐·帰登「呉尊師畢源露仙館詩序」
隷書は漢代に最も盛んで、多くの流派が発生した。魏晋以降に次第に落ち着き、様式化した書体が固まって、唐代に至っている。西安碑林の碑亭にある「石台孝経」は、唐の玄宗皇帝の筆跡だがこれはその種の書体の代表的なものだ。用筆も結構も、現在の印刷活字のように整然として謹厳だが活発さや変化に乏しい。このような動きのない書風の影響を受けた唐代には、隷書の名手といえる人は何人も出ていない。その中では、韓択木の書いた
Author: 鍾明善 Year 1987 Issue 10 PDF HTML
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7. 近世·王世鏜の章草
グラフ〈書道鑑賞〉もどうぞ章草は後漢時代に流行した書体である。隷書から移り変ってきたもので、後漢の章帝(七六~八三)の時に朝廷の公文書として使用された。章草とのちの今草との違いの主な点は、章草は隷書の跡が残っていて、字が独立し、続け書きされていないところにある。前漢の文字学者史游は、章草体でその著『急就章』を書き、後世·章草書家のトップとみなされた。今月号のグラフにのっているのは、近世の王世鏜の章
Author: 鍾明善 Year 1985 Issue 10 PDF HTML