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Your search : [ author:蔣文光] Total 6 Search Results,Processed in 0.075 second(s)
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1. 千七百年前の磚刻草書
古代の墓から出土する磚(せん)刻は、中国の書道芸術を研究する上で、ひじょうに高い価値をそなえている。最も古い磚文は、陝西省臨潼にある秦の始皇帝陵址から出土した長方磚で、その表面には陰文(いんぶん)(ほりこんだ文字。凹文)「左司高瓦」「左司涓瓦」の文字が刻まれている。おそらくこれは瓦工が自分の作品だということをしめした印章の類にちがいない。ややおくれて、前漢時代(紀元前二〇六~紀元二四年)につくられ
Author: 蔣文光 Year 1979 Issue 8 PDF HTML
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2. 漢碑の冠、劉熊の碑文
漢碑は、前漢の隷書が発展して後漢にいたって波磔(はたく)(右払いの筆法)のある八分(はっぷん)(篆書と隷書の中間の書体)となった。この期間の漢碑の精華は筆法、結体、風韻と格調を包括し、絢爛たる時代をきずいた。劉熊の碑文は優美で高踏的な書体で、この時代の代表的な作品とされ、漢碑の冠とまで激賞された。劉熊の碑はもと河南省の延津県にあった。北魏(三八六~五三四年)の酈(れき)道元の『水経注』にもすでに記
Author: 蔣文光 Year 1980 Issue 11 PDF HTML
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3. 北涼「且渠安周造仏寺碑」
北涼は、五胡十六国時代(三〇四~四三九)の三九七年に、匈奴の且渠蒙遜が甘粛省西部に建てた国である。且渠安周は、且渠蒙遜の第十子である。蒙遜の死後、その長男茂虔があとをついだが、四三九年に北魏に亡ぼされた。安周は、北魏と対抗するために、北は柔然に、南は劉宋にたより、その臣とみずから称していた。劉宋は安周を「使持節、散騎常侍として、涼·河·沙三州の諸軍事を督す西域の戊己校尉、涼州刺史、河西王」に封じて
Author: 蔣文光 Year 1981 Issue 9 PDF HTML
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4. 唐·虞世南の人と書
唐代の書といえば、欧(陽詢)虞(世南)があげられる。唐代初期の諸家のうち、虞世南はとくに有名な存在だ。虞世南(五五八~六三八)はあざなを伯施といい、越州余姚(今の浙江省余姚県)の人である。沈着寡言、篤学の士で、文章に堪能であった。幼年のころ、兄の世基とともに呉郡の顧野王の門下に入り、十年間たゆむことなく学びつづけた。唐の太宗(李世民)は即位前、秦府の参軍となり、房玄齢とともに文書を掌ったことがある
Author: 蔣文光 Year 1984 Issue 4 PDF HTML
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5. 秦·瑯琊台刻石
グラフ〈書道鑑賞〉もどうぞ紀元前二二一年、秦の始皇帝は、六国を統一したのち各国の書体の異なった文字に整理、改革を加え、統一して当時の一番規範的な通用する正式文字と決めた。これが、秦篆と言われるもので、つまり当時統一的に使用された小篆である。二世の胡亥は、皇帝の位を継いでから、東の郡県を巡行し、丞相李斯が随行した。そのさい始皇帝の立てた頌徳の刻石に文字を刻んで、先帝の盛徳を顕頌した。いわゆる秦の刻石
Author: 蔣文光 Year 1985 Issue 3 PDF HTML
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6. 唐·褚遂良の書「伊闕仏龕碑」
褚遂良(ちよすいりよう)(五九六~六五八)は、初唐の名臣であり、大書家である。政治面では清廉剛直、すこぶる気骨ある名臣であり、書学面では、欧陽詢、虞世南、薛稷と並び称される初唐四大書家の一人でもある。褚遂良、字は登善、杭州銭塘の人。その父は、唐の太宗の文学館学士、散騎常侍として仕えた名臣であり、欧陽詢、虞世南とはきわめて親しい間柄であった。褚遂良は貞観年間、太宗に仕えたとき、諫奏をもって愛重された
Author: 蔣文光 Year 1986 Issue 9 PDF HTML