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Your search : [ author:秦化江] Total 7 Search Results,Processed in 0.074 second(s)
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1. 明·傅山の隷書
傅山(ふざん)(一六〇五~一六九〇)は、明末清初の高名な書家兼画家であり、また思想家でもある。山西省陽曲(現在の太原市西村)の人で、字(あざな)ははじめ青竹、のちに青主、別に朱衣道人と号した。彼傅山こそはまことに多才な芸術家と称すべく、詩文、書道、絵画、篆刻ときわめつくさないものはなかったし、書も、篆、隷、行、草、楷のすべてにすぐれていた。早くから晋·唐人の楷書に学び、鍾繇(しようよう)、王義之、
Author: 秦化江 Year 1983 Issue 5 PDF HTML
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2. 明·黄輝の行草書
今月の「書道鑑賞」は、明の黄輝の行草の巨幅で、長さ三四九·四センチ、幅一〇四センチの中堂(表座敷の正面に飾る掛け軸)で、これは黄輝自作の「飲盤竜岩泉」という五言律詩である。「石髄従君剖,何如玉乳香。額珠光直射,胆鏡影横張。預露飛竜沫,寒星洗鵠漿。一杯和笑酌,分得道人糧」(大意―玉のような岩清水のすがすがしさ、酌んで飲めば仙人の糧かと思われる)。書には気勢がみなぎり、飄逸かつ重厚で、一筆一画に雷鳴の
Author: 秦化江 Year 1983 Issue 11 PDF HTML
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3. 清·龔晴皋の草書
龔有融(きようゆうよう)(一七五〇~一八二五)、あざなは晴皋(せいこう)、晩年“拙老人”と号し、四川省巴県の出身。乾隆四十四年己亥(一七七九)の挙人(郷試に合格した人)で、清代の有名な書家、画家である。郷試及第後、都に赴いて会試を受けたが、合格できず、宿屋でゆきづまってしまった。帰郷の金すらなく、やむをえず宿帳の手伝いなどして一時をしのいでいた。大晦日の日、宿屋の主人が晴皋に、新年を祝う対聯を書い
Author: 秦化江 Year 1984 Issue 8 PDF HTML
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4. 明·費密の行草書
グラフ〈書道鑑賞〉もどうぞ費密は、あざなを此度といい、燕峰、巻隠と号した。明代の著名な詩人、書家である。一六二五年(明熹宗天啓五年)生まれ、一七〇一年(清聖祖康熙四十年)没す。享年七十七。四川新繁(今の成都に属する)の人。費密は九歳のとき母に死別し、父に孝養を尽した。幼なくして賢く学を好み、書に巧みで詩もよくし、古書の注釈にも精しい。才気煥発、文名の高い人である。費密は成都の邱覆程、雅州の傅光昭と
Author: 秦化江 Year 1985 Issue 2 PDF HTML
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5. 明末·高僧海明の草書
グラフ〈書道鑑賞〉もどうぞ農民蜂起の嵐が中国の大地でうずまいた明朝の末期、四川省でこんな物語が広く伝わった。蜂起軍の領袖張献忠が、兵を率いて県城を取り囲み、攻めていたところ、一人の僧が面会を請うた。僧は彼に城を攻め落としたあと、みだりに殺戮しないよう求めた。要請を聞いた張献忠は、近侍の兵にすぐ卵を一つ持ってくるよう命じ、相手に言った。「出家された方は、生あるものをぜったい殺さないそうですが、もしも
Author: 秦化江 Year 1985 Issue 9 PDF HTML
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6. 明末清初·釈普荷の草書
釈普荷(一五九三~一六七三)、俗姓は唐、名は泰、字は大来、雲南省晋寧の人。代々学者の家に生まれる。明末·清初の有名な書家であり、画家である。幼少から古典文化の薫陶を受け、十歳にして詩を詠んだ。三十三歳になって初めて都に上り、礼部の試験を受けたが失敗し、官途への望みも断たれた。その寂寥に加えて、異民族の侵入は、彼に憂国の情をつのらせた。壮志いまだ遂げぬうちに明の滅亡を眼前にした普荷は、崇禎十五年(一
Author: 秦化江 Year 1986 Issue 6 PDF HTML
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7. 張大千の書
張大千(一八九九~一九八三)、四川省内江の人。原名は正権、のちに張爰と改名し、また張季、季爰と名乗る。あざなは大千、大千居士と号し、画室に「大風堂」と名づけた。張大千は、世界に名をはせた中国画の大家であるとともに、傑出した書家でもある。一九一七年、次兄善孖と一緒に日本に渡り、絵画と染織技術を修め、二年後上海に戻り、著名な書家曽熙(一八六一~一九三〇)、李瑞清(一八六七~一九二〇)の二人に師事し、書
Author: 秦化江 Year 1987 Issue 4 PDF HTML