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Your search : [ author:構成·え 魯忠民] Total 483 Search Results,Processed in 0.096 second(s)
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1. 北京新しい魅力
世界最大の広場に臨んで建つ天安門。一九四九年十月一日、毛沢東主席が、この天安門の楼上から、中華人民共和国の成立を宣言したことは、余りにも有名です。新中国のシンボルとなった天安門は、明代、清代をつうじて、皇城の正門でした。北京城は、内城と外城に分けられ、内城の中央南部に皇城が、皇城の中に紫禁城が位置します。天安門の南、広場をはさんでとおく天安門とあい対するのが正陽門。内城の正門にあたります。俗称は前
Author: 構成·え 魯忠民 Year 1990 Issue 2 PDF HTML
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2. 山西古跡めぐり ②五台山
五台山の名は、日本人にもなじみが深いのではないでしょうか。早く文殊菩薩(もんじゆぼさつ)のあらせられる聖地とされ、唐代には、玄昉(げんぼう)、霊仙、円仁(えんにん)、宋代には、奝然(ちようねん)、成尋(じようじん)といった日本の高僧が、万里を遠しとせずして、この聖山を訪れています。山西省の東北部、五台県内にあり、高くそびえる五つの峰の山頂は、さながら「うてな」のように平らなことから、「五つの台(う
Author: 構成·え 魯忠民 Year 1990 Issue 11 PDF HTML
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3. 山西省古跡めぐり④平遥
太原市から南西へ九〇キロ、明·清代の城郭がそっくり残るまち―平遥を、山西省古跡めぐりの旅の最後に訪れます。城壁に囲まれたまち全体が、そのまま“古代城郭博物館”といった趣の平遥は、周の宣王の時代(紀元前八二七~前七八二年)に、大臣の尹吉甫が築いたといわれますが、今に残る城壁は、明の洪武三年(一三七〇年)から、それまでの城壁を基礎に拡大築造されたもの。東西南北に直交する街路と通りに面して並ぶ商家、奥に
Author: 構成·え 魯忠民 Year 1991 Issue 1 PDF HTML
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4. 7 新疆 カシガル 早わかりマップ
わたくし、姓は孫、名は悟空、人呼んでスーパー·モンキーと発します。好評につき、カラーページに昇格!読者のみなさまの暖かいご支持により、イラストガイドにカラーページが加わったのであります。うん、気分いいですナ。わたくし、もってガイド冥利に尽きるということで、絵師の魯忠民同志ともども、いっそうの御奉仕に、これつとめます!カシガルは、パミール高原のふもと。シルクロードは、ここで西と南に分かれ、パミールの
Author: 構成·え 魯忠民 ガイド 孫悟空 Year 1989 Issue 1 PDF HTML
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5. 新疆 タシコルガン
わたくし、姓は孫、名は悟空、人呼んでスーパーモンキーと発します。シルクロードの旅も大づめに近づきました。タシコルガン。クンジラプ峠を越えれば、そう、先はパキスタン。中国国境内最後の町が、ここタシコルガンです。タシコルガン·タジク自治県。カシガルから二八〇キロメートルほど、海抜三七〇〇メートル。お国の富士山は、三七七六メートルですから、富士山の頂上にも近い高さでしょうか。一帯はすでに“世界の屋根”·
Author: 構成·え 魯忠民 ガイド 孫悟空 Year 1989 Issue 2 PDF HTML
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6. 6新疆 トルファン 早わかりマップ
わたくし、姓は孫、名は悟空、人呼んでスーパー·モンキーと発します。トルファンです!トルファンでございます!北縁を火焰山にふちどられたオアシス。さながら、すりばちの底のように深くくぼんだ盆地の最低点は、海抜マイナス一五〇メートル。中華なべの底といってもいいでしょう。あついんです。炎をふき出して燃えあがるような赤い山肌の、草一本ない山脈。そう、おいらが、その昔、大活躍した火焰山に、みなさまをご案内しま
Author: え 魯忠民 Year 1988 Issue 12 PDF HTML
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7. 龐薫琹(パンシュンチン) 工芸美術の価値を提唱
龐薫琹は字を虞鉉(ぐげん)、筆名は鼓軒と称した。一九〇六年六月二十日、江蘇省常熟県に生まれ、幼少時から絵を好み、十歳で花鳥画を学び始める。青年時代は上海暨南大学で医学を修めたが、のち美術を専攻した。一九二五年、フランス、パリに留学、絵画を学び西洋の近代美術の影響を受ける。パリでは、工芸美術のジャンルにも挑み、服飾デザインの仕事にかかわった。帰国前、彼には二つの目標が芽生えていた。一つは、西洋画の創
Author: 魯忠民 Year 2001 Issue 3 PDF HTML
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8. 徐悲鴻(シュベイホン) 中国絵画の改革を推進
徐悲鴻は、中国の近代美術に大きな影響を与えた人物だ。一八九五年、江蘇省宜興うまれ。祖父は村で仕立てをしながら田畑を耕し、父は独学で絵を学ぶ傍ら、瓜を栽培し、私塾を開いていた。その後、洪水のために一家の生活が困窮し、徐悲鴻は父に従い、絵を売って生計をたてるようになった。のちには、彭城中学校の美術教師となった。一九一七年、絵を売って得た資金で日本に留学。留学中は、毎日博物館や個人宅に通いつめ、様々な絵
Author: 魯忠民 Year 2001 Issue 4 PDF HTML
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9. 沙耆(シャチィ) 闘病生活から生まれる美
今年春、「沙耆芸術七十年作品回顧展」が北京の中国美術館、上海美術館、台北歴史博物館を巡回し、各地で大きな注目を浴びた。美術評論家は、この特別な画家の特別な絵画を、見る人に独特の魅力を感じさせるものと称えた。沙耆は一九一四年、浙江省鄞県沙村生まれ。もとの名は沙引年だが、字を吉留と称し、号を沙耆とした。一九二九年から三六年にかけて、上海昌明芸術専科学校、上海美術専科学校、杭州芸術専科学校、中央大学芸術
Author: 魯忠民 Year 2001 Issue 6 PDF HTML
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10. 陳抱一(チェンバオイ) 狂わされた運命と芸術
陳抱一は、一八九三年、上海に生まれた。父は招商局の要職にあり、恵まれた家庭環境に育つ。少年時代から芸術を愛し、理解ある父に支えられて、美術関係の書籍を買い集め、没頭する日々を送った。そして恵まれた条件のもと、比較的早くから、西洋画に取り組んだ。初期に私淑したのは、中国における西洋画の黎明期、重要な役割を果たした張聿光(一八七一~一九六八)、もう一人は、中国初の私立美術学校の創設者、周湘(一八七一~
Author: 魯忠民 Year 2001 Issue 7 PDF HTML