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Your search : [ author:文·劉東平(リウトンヒン) 写真·胡婭華(フーヤーホア) 劉東平] Total 82 Search Results,Processed in 0.110 second(s)
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1. ナーシー文化ただよう麗江
深さ三千六百メートルの峡谷雲南(ユンナン)省の西北部、迪慶(ティーチン)チべット族自治州政府のある中甸(チヨンティエン)からバスで麗江(リーチアン)に向かった。その途中に虎跳峡(フーティアオシア)がある。長江(チャンチアン)の流れが最初に大きくカーブする所だ。虎跳峡鎮を過ぎて哈巴(ハーハー)雪山のふもとを長江に沿って行くと、切り立つ山々は一層険しさを増す。青黒い巨岩の間からわき出した泉が岩壁を伝っ
Author: 文·劉東平(リウトンヒン) 写真·胡婭華(フーヤーホア) 劉東平 Year 1999 Issue 1 PDF HTML
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2. 神秘の熱帯樹を見る―シーサンパンナ
西盟(シーモン)の阿佤(アワ)山から瀾滄(ランツアン)県を抜けてシーサンパンナに入ってからは道が徐々になだらかになり、鬱蒼(うっそう)としたパラゴムノキの森を背景に青々とした水田が広がった。道を行く色鮮やかなスカートをまとった少女たち、自転車に乗った赤い帽子の少年たちが、この肥沃な土地にいっそうあでやかさを添えている。景真の八角亭勐海(モンハイ)県まであと十数キロという時、山の上に美しい多角形の建
Author: 文·劉東平(リウトンビン) 写真·胡婭華(フーヤーホア) 劉東平 Year 1998 Issue 6 PDF HTML
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3. 三蔵法師玄奘(げんじょう)の古里へ
唐代(六一八~九〇七年)の名僧玄奘(げんじょう)(六〇二~六六四年)はわたしのかねて尊敬する歴史的人物である。わたしは以前、彼がインドから持ち帰った経典を収めた西安の大雁塔(だいがんとう)を見上げたことがある。新疆ウイグル自治区のシルクロード沿いにその足跡を尋ねたこともある。しかし、彼をはぐくんだ古里に足を向けるのは今回が初めてだった。玄奘の一生北京から列車で一晩過ごすと、河南省洛陽(ルオヤン)に
Author: 文·劉東平(リウトンヒン) 写真·霍建瀛(フオチエンイン) 劉東平 Year 1998 Issue 7 PDF HTML
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4. 呉県―太湖観光のニュースボット
中国の名湖、太湖(タイフー)と言えば、まずは無錫(ウーシー)が思い出される。太湖の美しさを堪能するには無錫に行くのが一番と思っている人が多いが、今回紹介する呉県(ウシエン)には、今まで知られることのなかった太湖の魅力が隠されている。梅花の海呉県市は、蘇州(スーチョウ)を取り囲むようにして太湖に面している。太湖の総面積二千四百平方キロの四分の三と、太湖七十二峰のうち五十八峰を擁し、その眺めは素晴らし
Author: 文·劉東平(リウトンヒン) 写真·高学余(カオシュエユー) 凌奕(リンイー) Year 1998 Issue 11 PDF HTML
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5. “縁結び作戦”進行中
姉の悩み「女は年頃になったら嫁に行くべし」中国ではよくこんな言い方をするが、私の姉瑩瑩(いとこインイン)は今年もう三十二歳になるのにまだ結婚していない。こう言ってはなんだが、姉は上品でしとやか、教養も人並み以上ある。それなのに、なぜいまだに結婚相手が見つからないのか。話せば長くなるが、「文革」がはじまったころ、まだ天真爛漫な中学生だった姉は、「知識青年は農村へ行くべし」という当時の大勢にしたがって
Author: 劉東平 Year 1985 Issue 1 PDF HTML
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6. 中等職業教育のモデル校北京勁松職業高校を訪ねて
わたしは北京市東南の一勁松」団地に住んでいる。このあたりには高層ビルが林立し、道路は広く、街路樹も緑豊かである。家からほど近いところに、沙板荘中学校がある。毎日の出勤途上、学生たちがかばんを背おい、数人ずつ連れだって学校に入っていく光景をよく目にする。が、ある日正門わきにかけてある校名が「勁松職業高校」に変わっているのに気づいた。それに、学生の服装も違う。ジャンバー風の作業服を着ているもの、コック
Author: 劉東平 Year 1985 Issue 11 PDF HTML
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7. よい子を生んで上手に育てよう
最近、北京市計画出産委員会で知り得たところによると、この人口九二三万人余をようする大都会北京市はすでに人口数を効果的にコントロールし、人口の伸びを計画的に抑制することができるという。六十年代中期、まだ計画出産を実行していない時、北京市の人口の自然増加率は千人につき(以下同じ)三十五前後であったが、一九八四年には八·五九となった。この二十年間に、人口の自然増加率は二六·四一低下し、すなわち二百五十六
Author: 劉東平 Year 1985 Issue 12 PDF HTML
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8. 中日友好病院を見学して
中日友好病院は北京の東北の方向、桜花路の東側にあり、一九八四年十月の開業いらい、一年あまりたった。数多くある北京の大病院のうちでも一番若い病院であるが、後の雁が先になるとのことわざのように、その名声は広く国内外に伝えられている。先日、筆者はこの病院を見学した。最先端の医療設備敷地八〇〇〇平方メートルをこえるこの病院は、十四階建ての病棟を主体として外来診察用ビル、リハビリ·センター、臨床科学研究所、
Author: 劉東平 Year 1986 Issue 5 PDF HTML
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9. ちびっこ発明家 三人の場合
中国の青少年の間に、今、ちょっとした“発明ブーム”がまきおこっています。科学教育が年を追って定着していることの、ひとつの現われといってもいいでしょう。1982年から、中国科学技術協会が中心になって催す「全国青少年発明·科学論文コンクール」も、三回、開かれています。
Author: 劉東平 Year 1986 Issue 10 PDF HTML
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10. 知恵遅れの子供たちのために
知恵遅れの子供たちがいる。先天性のもの、出産時に原因するもの、あるいは疾病による後天的なものなどさまざまだが、これらの子供たちは、家庭の負担を増すとともに、社会的にも重荷となっている。中国児童発展センターの中のある連絡部門が、一九八二年に北京市西城区の廠橋地区で実施した調査によると、零歳~十四歳の児童のうち、知力低下の子が〇·七八%いた。この数字から推算すると、中国には二百万あまりの知恵遅れの子供
Author: 劉東平 Year 1988 Issue 11 PDF HTML