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Your search : [ author:北京旅遊学院講師 小池晴子] Total 26 Search Results,Processed in 0.097 second(s)
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1. 幻のジャンクを追って
寧波に行きたいと思ったのは、司馬遼太郎氏の「街道をゆく 一九―中国·江南のみち」(朝日文庫)を読んだからです。そのなかで氏は、かなりのページをさいてジャンクについて述べておられます。「船形としてのジャンクは、優美というよりもやや泥くさくていわば土俗的であり、雄偉というよりも生活的で、さらにいえば勇壮というよりも不恰好なほどに防御的である。この人類の船舶史上、独自でしかも強靱な息づきを見せる存在は、
Author: 北京旅遊学院講師 小池晴子 Year 1995 Issue 5 PDF HTML
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2. 幻のジャンクを追って
前回で、杭州湾一帯に広がる開発の波と、観光旅行に表れる「見たいもの」と「見せたいもの」とのズレについて述べました。今回は、もう一つの問題点、ショッピングにちょっと触れてから、私が追い求めてきたジャンクについての顚末をお話しましょう。いま中国を訪れる日本人観光客のいちばん大きな不満は何かご存じでしょうか。意外にも「買物」なのです。買物好きといわれる日本人観光客の六〇パーセント以上が、買物に対する不満
Author: 北京旅遊学院講師 小池晴子 Year 1995 Issue 6 PDF HTML
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3. 唐の地を踏む
九世紀当時の日本において、遣唐使派遣は国家の重要な政策の一つであった。一行には唐朝廷を訪問する遣唐大使代表団のほかに、僧侶、職人、商人など中国の先進文化に学ぼうとする人々の一団も加わっていた。とりわけ中国の高僧の下で仏法の教えを学びたいと念願する学僧にとって、渡海は不可欠の経験とされていた。円仁は京都に近い比叡山延暦寺の高僧であり、その師最澄は、八〇五年唐において天台宗の教学を学び、教典と法具を携
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2007 Issue 1 PDF HTML
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4. 運搬船で楚州へ
円仁は、ついに天台山(現在の浙江省)での修行を許可されなかった。もはや、遣唐使一行とともに十隻の小舟に分乗して大運河沿いに北へ進み、一行を日本へ運ぶ船が待ち受けている場所へ向かう以外、道は無かった。八三九年旧暦二月二十四日、一行は昼食をとるために山陽県に立ち寄った。このとき、円仁は、「午後五時、城壁を廻らした楚州に着いた。……我々は開元寺に行き西の亭に宿泊した」と記している。一行はこの地に一カ月ば
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2007 Issue 3 PDF HTML
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5. 黄海を渡る 海州から乳山へ
円仁一行は淮河伝いに大海へ向かった。八三九年旧暦三月、船団は当時の海州港を通過して黄海へと乗り出していった。円仁は八四五年から八四七年にかけて、日本へ帰る船便を求めて何度かこの地に戻っている。海州は、唐代にあっては重要な港湾都市であったが、現在では近代都市連雲港の一地区に過ぎない。しかし、今でも往時の海州の遺物を多数目にすることができる。(写真①)旧市街で仏教との関わりを探していると、「百子庵」と
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2007 Issue 4 PDF HTML
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6. 赤山の新羅人による庇護と助言
山東半島の海岸線に沿って航行中、円仁と遣唐使一行は、今航海中最も恐ろしい体験をする。二昼夜にわたって荒れ狂う嵐に閉じ込められ、難を避ける入江すらなかったのである。このときの人々の恐怖を、円仁は次のように記している。「全員うち揃って誓願を発し、お祓いをして船上の雷神に祈った。さらに船上に祀られた住吉大神を崇め奉り、また八幡大神等日本の神々、海龍王、並びに当地登州の山地島嶼の神々にも誓願をたてた」一同
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2007 Issue 5 PDF HTML
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7. 登州で通行許可証を待つ
円仁と二人の弟子に従者を加えた四人は、山東半島の海岸伝いに、登州(現在の蓬莱市)都督府を目指した。四人にとって、今回が初めての四人だけの旅であり、かつ人々のお布施に頼って食と宿とを得る旅であった。円仁は、塩を採る場所を渉っていったと述べている。今日でも、浜辺には塩田が広がり、昔と同じ方法で海水を天日に干して塩を生産している。(写真①)円仁がたどった道筋を走る高速道路に、「牟平出口」の表示が出ていた
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2007 Issue 6 PDF HTML
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8. 青州府で歓迎される
青州は唐代、非常に大きな州の州都であり、その管轄規模は現在の山東省よりも大きかった。円仁がこの重要都市に到着したのは八四〇年旧暦三月二十一日であった。円仁と弟子たちは竜興寺に十日間滞在し、この間に通行許可証交付願いを提出した。続いて、この地域の軍政官でもある青州府長官に会見し、ほどなく五台山および首都長安への旅に必要な公式通行許可証を交付された。円仁は、「四月一日、午前の謁見時に公式通行許可証を受
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2007 Issue 7 PDF HTML
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9. 醴泉寺から黄河への行路
円仁と弟子たちは八四〇年旧暦四月三日早朝、青州府城を後にした。彼はこう記している。「初めて会ったときより、幕僚判官は極めて親切な心遣いを示し、竜興寺滞在中は毎日布施を届け、常に慰問してくれた。出発に当たっては、人をつけて見送らせ、合わせて道案内もしてくれた。青州府を出て城外を行くこと十里にして堯山あり、山上に堯王廟が祀られている。……聞くところによると、ここで雨乞いすると必ず祈りに感応して降雨あり
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2007 Issue 8 PDF HTML
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10. 南宮から曲陽へ 唐代の道を行く
円仁による山東省徳州から河北省曲陽までの旅の描写によって、私たちは一行の巡礼生活がどんなものであったかを思い描くことができる。八四〇年旧暦四月十一日、一行は徳州で一夜を過ごした。「この家の主人は信仰心のない男だった」と円仁は記している。彼は先を急ぐあまり、鶏や陶磁器、木綿や黒いロバなどに目を向けるゆとりはなかったようだが、現在の徳州はこうしたものでよく知られている。運よく翌日の夜は、仏教徒である孫
Author: 阿南·ヴァージニア·史代=文·写真 小池晴子=訳 Year 2007 Issue 9 PDF HTML