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Your search : [ author:写真 王長青] Total 3424 Search Results,Processed in 0.104 second(s)
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1. 第二の故郷に“里帰り”柳田泰雲氏揮毫の石刻が泰山に
泰山の山頂·玉皇頂にほど近い丈人峰の中腹に刻まれた「国泰民安」の四文字。一字が方一メートル。くっきりと岩に刻まれ、鮮やかな朱色が施されている。書道に親しんだ方なら、きっと一目で、揮毫の書家がお分かりになるのでは?日本漢字書道の最高峰をきわめ、自他ともに第一人者と認めていた故柳田泰雲氏、最晩年の作品なのである。一九八九年九月、中華人民共和国成立四十周年を祝うため、八十八歳の高齢を押して中国を訪れた柳
Author: 写真 王長青 Year 1991 Issue 4 PDF HTML
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2. 日本の家庭から中国の小学校へピアノ700台とエレクトーン100台
一月の末、中国児童少年基金会の招きで、日本の「アジア音楽センター」の代表若林千恵子さんと、崎谷延好氏、小林一三氏の三人が北京に来られた。声楽家の若林さんは、少女時代から中国音楽が好きで長年にわたって中国の歌曲を日本に紹介したり、中日両国語で編集した歌集を日本で出版したり、また何十回も中国に来て歌われるなど、中国でよく知られている「好朋友」だ。五年前、偶然の機会に中国の小学校でピアノが不足しているこ
Author: 写真·文 王長青 Year 1991 Issue 6 PDF HTML
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3. 「老舎研究会」北京胡同の旅
今年初め、中国人民対外友好協会の許氏から、同協会が日本の「老舎研究会」を招いて「北京胡同の旅」を企画しているとのお話があった。しかもこれには会の主催者、中山時子先生が自ら訪中団を率いてこられるという。懐かしい方に会えると知って私たちは興奮した。「老舎研究会」は、長期にわたって日中友好運動に関わり、中国文化、特に老舎の作品の研究を続けている。会員には『人民中国』誌の読者が少なからずいて、一九九八年七
Author: 文·写真 沈延太 王長青 Year 2000 Issue 8 PDF HTML
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5. 朝市、京劇、小鳥飼い…
北京観光といえば故宮から始めるのが普通のコースだ。故宮は別名紫禁城、北京の中心部に位置し、「城の中の城」とも言える。明の第三代皇帝永楽帝(在位一四〇二~一四二四)のとき全国から優れた工匠を集め、二十万余の人夫と軍隊を動員し、十四年がかりで造営された巨大な建築群だ。周囲三千五百メートル、南北九百六十メートル、東西七百六十メートル、そして城壁の高さは七·九メートルに及ぶ。城の四隅を角楼が押さえ、「九梁
Author: 沈延太 王長青 Year 1998 Issue 8 PDF HTML
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6. 前門、大柵欄かいわい
地方の人びとが前門を北京のシンボルのように思うのは、ふしぎでもなんでもない。現に四十数年前、私が故郷の江蘇省から初めて北京に来たときも、北京駅は前門のすぐ東どなりにあったのだ。駅の玄関を出てまず目に飛びこんできたのは、雄大で荘厳な正陽門(前門の正式の名称)と箭楼(せんろう)だった。ともに五百年以上の歴史をもっているのに、まだできたばかりのように思われ、その輝かしさはまさに古代建築の傑作というにふさ
Author: 沈延太 王長青 Year 1998 Issue 9 PDF HTML
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7. 伝統技術も見事に保存
六〇年代の初め、まだ中央美術学院の学生だった私は、美術の基礎の勉強と書画の鑑賞を兼ねて、美術館や故宮博物院の絵画館をよく訪ねた。中でも、拓本、陶磁器などの店が集まった和平門外の瑠璃廠(リューリーチャン)には、もうしょっちゅう通っていた。この瑠璃廠は、東は延寿街から西は北柳巷·南柳巷に至るまでわずか七百五十メートルの古い文化街だが、訪れるたびにまた来ようという気持ちにさせられたものだ。土地のある古老
Author: 沈延太 王長青 Year 1998 Issue 10 PDF HTML
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8. イスラム教徒の牛街 四合院にも独特のふんい気
天安門から西南へ約六キロ行ったところにある牛街(ニウジエ)は、北京で最大の回民(イスラム教徒)居住地だ。全長一キロ足らずのこの通りをはさんで、大小数十本の胡同がつらなっている。道幅がそう広くないので、よく茂ったエンジュの並木がすっぽり道路を覆い、清潔で整然とした趣。道を行く人々は白い礼拝帽をかぶったものが多く、雑踏の中にもやさしさと静けさが感じられる。ここには回民のための小学校、中学校がある。南口
Author: 沈延太 王長青 Year 1998 Issue 11 PDF HTML
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9. 老北京きっての歓楽街
前門から南下する前門大街を通り抜けて天壇公園の西側に出たところに、老北京でも指折りの歓楽街として栄えた天橋がある。天橋の名は、かつてそこにあった石橋から来ている。史料の記すところによると、この辺りは元から清代初期にかけて水と沼の多い土地で、「野の水は満ちあふれ、風に荻の花そよぐ」ありさまだったという。しかし元代には、すでに北京の文人墨客、官僚たちの行楽や保養の地となっていた。夏から秋にかけて画舫(
Author: 沈延太 王長青 Year 1998 Issue 12 PDF HTML
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10. 白塔寺に歴史の風雪 人波でにぎわう鳥の市、魚の市
一九八〇年代まで北京の西城区のあたりには、高層建築物はほとんどなかった。そのころ一番高い建物として人目を引いていたのが、阜成門内の白塔寺(正式には妙応寺という)の中にある白塔だった。全体を白く塗ったこの大きなチベット式仏塔(ラマ塔ともいう)は、今から約七百年前の元代初年に建立された。元の世祖フビライは建国後、当時の燕京、すなわち北京を冬の都とし、大都と名づけたが、白塔は数少ない当時の遺跡となってい
Author: 沈延太 王長青 Year 1999 Issue 1 PDF HTML